堰を切ったように…

 タガが外れたのは、あくまでも恣意的に堰を切ったからで、街に溢れる人波のせいではない、それは結果なのだ。大使館に観光ビザの発給を求めて大勢が並んでも、「何を愚かな…」というのは勝手だが、これもまた〝成り行き〟というべきだろう。検証、判断の順番を間違えると誰かは喜ぶか胸をなでおろすかもしれないが、〝自己責任〟などというおぞましい言葉がまたまた巷を跋扈することになりかねない。
水の流れは止められないし、その勢いを削ぐことはまた別のところに無理を生じさせ、新たな問題が発生しかねない。ただ、客観的な視点は必要であり、ある種の行儀良さを忘れなければ事態は鎮静に向かうだろうとは思う。そのためにも、正確で、煽りのない冷静な情報の提供、受取が欠かせない。

こんな映画を観てきた[26] 恐怖のメロディ

   恐怖のメロディ[Play Misty for Me](1971/米 監督:クリント・イーストウッド)

 ラジオ局のDJ(クリント・イーストウッド)が精神異常の女(ジェシカ・ウォルター)につきまとわれて恐ろしい状況に追い込まれるというサイコミステリーである。これがイーストウッドの第一回監督作品なのだが、個人的には、これが彼の最高作品ではないかと密かに(勝手に)思っている。この女がいつも決まってリクエストしてくるのが『ミスティ』、シカゴ上空から夜景を見て出来た曲だというが、とにかく名曲で、その後ジャズといえばこの曲を…ということ(あくまで個人的に)になった。それはともかく、「かわいさ余って、憎さ百倍!」本人はおろか復縁を望む妻にまで恐怖が迫る、油断大敵(身から出た錆という要因も少し?ある)、ちょっとした緩みは大きな災いの元、くわばらくわばら…である。

こんな唄に出くわした[6] -倖せはここに-

   倖せはここに
     作詞・作曲:大橋節夫

  秋の夜は更けて すだく虫の音に
  疲れた心いやす 吾が家の窓辺
  静かにほのぼのと 倖せはここに

  星のまばたきは 心の安らぎ
  明日の夢をはこぶ やさし君が笑み
  静かな吾が窓辺 倖せはここに

  静かに静かに 街の灯もきえた
  遠い空見てごらん 明日の夢がある
  小さな小さな 倖せはここに

 その昔確かに聞いたような記憶はある、当時既に〝懐メロ〟の扱いであったような気がしているが、とにかく、聴いていて心地よい唄である。明らかにハワイアンなのだが、そんなこととは関係なく、何度続けて聴いても飽きない、歌詞も曲も何処にも障ることなく、ずっと聴いていられる〝唄付きのイージーリスニング〟なのだ。BEGIN の比嘉栄昇のものも聴いてみたが、これもまたゆったりとした時間の流れに身を任せられて落ち着く…まさに幸せなひと時を得られるというわけだ。

こんな唄に出くわした[5]  -町の酒場で-

   町の酒場で
   作詞・作曲・唄:浅川マキ

  町の酒場で 酔い痴(し)れた女に
  声をかけては いけない
  どんなにあんたが 淋しいときでも
  昔あんたが 恋した人に似ていても
  声をかけては いけない

  町の酒場で 酔い痴(し)れた女に
  声をかけては いけない
  たとえあんたが 旅の途中でも
  早くこの町を 発(た)ちなさい
  あんたの行く先 いい事あるだろう

  町の酒場で 酔い痴(し)れた女に
  声をかけては いけない
  どんなにあんたが 淋しいときでも
     【 1973年11月発売 】

 何をかいわんや!浅川マキの名曲(恥ずかしながら当時の記憶なく、ネットによると、どうやらそういう事らしい…)である。 舞台は場末であっても、決して下品でなく、そっけなくても、それでいて限りなくやさしい…
 発売当時は未成年でもあり、さすがに、こういった場所への出入りはなく、こんな人間関係に触れることもなかったが、もう5年、いや10年後ろに時代がずれていたら、きっとどっぷりとこの雰囲気に浸かっていたろうにと思うのである。

こんな映画を観てきた[25] ベニー・グッドマン物語

   ベニー・グッドマン物語[The Benny Goodman Story](1955/米 監督:ヴァレンタイン・デイヴィス)

 ベニー・グッドマン(スティーブ・アーレン)の楽団がステージで演奏している。客席で母親と恋人が並んで座っている。母親が「あの子は口下手で、もうプロポーズはしたの?」、それにこたえて恋人のアリス(ドナ・リード)が言う「今、していますよ」、いかにもアメリカ的なエンディングである。
 この類の作品はだいたい成功する。もともとのモデルが成功者なわけだから当然ではある。その代表が『グレン・ミラー物語』だとすると頷けないか?!『愛情物語(エディ・デューティン物語)』も同類だと思うが、こちらは〝成功物語〟というよりは、むしろより複雑な人間ドラマで、ちょっと異質かもしれない。

じわりと寄せくる苦い波

 余裕を見せて苦難の民に救いの手を差し伸ばしたものの、内容が伴わず、かえって嫌われてみたり、付き合いべたというのは当の本人にしても相手方にしても実に厄介な代物で扱いと反応に困り果てるのがオチであろう。持てる者は相も変わらずおためごかしの見せ掛けの“思いやり”たっぷりのご提案でお茶を濁し、それに惑わされ、目を瞑り口を噤むある種の階層の者たちの軽さはいかばかりか、どうしたものか…決して矢面に立たず、場合によっては卑屈ささえも厭わない、しかしその影で得たものは、蠢くものは、百年の平穏のなんと虚しいことか、そして脆いことか、今、覚悟せねばならない時なのかもしれない。ヘラヘラとわらって「自分には関係ない」「そんなつもりではない」などと言っても即座に押しつぶされてしまうかもしれない、そんな時代はごめんだが、現実の足音が聞こえる…ような気配もある。とにかくできることは、じっと見つめることだと思う、事と次第では、行動よりも値打ちのあることではないだろうか・・・

こんな唄に出くわした[4]  -富岡慕情-

 いわゆる〝ご当地ソング〟であるが、富岡という土地に特別な感慨はない。偶々この唄に出くわして、我がふるさと、想い出を振り返るに、申し訳ないが、地名とそれに直接つながる箇所を替えると、しっくりはまるのだ。“替え歌”にもならないが、個人的により一層“沁みる”ものになった。
そして、こうなる・・・

     作詞・作曲…荒木 悟
     唄 …三島 敏夫

  幼馴染の つぶらな瞳
  貫前(八幡)参りに 想いを込めた
  君のうなじに ほつれ毛ゆれて
  むせび泣くような 富岡(大洲)の灯り
  ああ いとしあの娘は 今いずこ

  清き流れの 鏑(臥龍)の淵に
  姿うつして 泣いてた君よ
  愛のともしび ほのかにともり
  すすり泣くよな 富岡(大洲)の灯り
  ああ いとしあの娘は 今いずこ

  古き名残の 富岡製糸(大洲の和紙よ)
  繰り出す(手漉きの)生糸の(半紙に…かみに) 片倉(肱川)娘
  真白き肌に おもかげ染めて
  しのび泣くような 富岡(大洲)の灯り
  ああ いとしあの娘は 今いずこ

 三番については少しばかり苦しいが、まあ繋がっている。三島敏夫さんが唄ったというが、曲自体には全くもって記憶がない。何とも言えない甘ったるい声と歌い方で人気があったようにも微かに覚えているが、もともとハワイアンの人であったとすれば、そういう人が演歌を歌うとこうなる…一種の企画物だったのかもしれない。ちょっとは〝当たった〟らしく、この類の曲がその後続いたとのことだが、大ヒットということにはならなかったようだ。それはともかく聴く側も年をとって、〝やけに沁みる〟ということにあいなった。

こんな唄に出くわした[3]  -雪-

   雪 

  作詞:吉田旺
  作曲:池毅
  歌:ちあきなおみ

 噂たぐって 北港(きたみなと)
 消息(ゆくへ)つきとめ うれしやと
 あなたのアパート 訪ねれば
 「どなた?」と女が 顔をだす
 古いともだち 友達ですと
 つくる笑顔に 雪…雪…雪…
 雪…雪…雪…

 「すぐにあのヒト 戻ります」
 「どうぞ上って ください」と
 微笑む真赤な その頬に
 負けたとなぜだか そう思う
 「汽車の時間が ありますから」と
 頭さげれば 雪…雪…雪…
 雪…雪…雪…

 吹雪(ふぶ)く坂道 ヨロヨロと
 ヒールひきずる もどり道
 子供の手をひき あのひとが
 私に気づかず 行き過ぎる
 あなたさよなら さよならあなた
 踵(きびす)かえせば 雪…雪…雪…
 雪…雪…雪…

 ちあきなおみと、日吉ミミで聴いてみた。対極的な唄い方で、それぞれの特徴がよく出ていて、それぞれ沁みるものだった。物語としては、いわば“修羅場”もので、それほどの“深味”も感じないが、歌い手の力量?による沁み具合といったところかもしれない。ただ、『雪』の存在感というか、効果は絶大、これ以上の寒々しさはないだろう。

天気予報と今日の料理

 新型コロナとウクライナ、いずれも〝ゲーム〟などではなく、現実に起きていることで断じて見て見ぬふりをしてはならない。がしかし、まるでメディアの手抜きみたいに〝右へ倣え〟の大合唱で、同じ(全部とは言わないが…)内容を日がな一日垂れ流し?決して飽きてはいけない、〝平和ボケ〟して、対岸の火事としてはならない…とは思うが、いっそのこと目をつむってしまいたくもなる。
 ところで、飽きてもいいはずなのに、ついついチャンネルをあわせてしまうのが『天気予報』と『料理番組』だ。いずれも今この時に参考にして生活に活かす(そういう人も多かろうが…)ようなこともない。マンネリ、飽き飽きといえばその双璧といってもいいはずなのに、なんとなく流しておいて驚きこそないものの、とにかく安心感に包まれるのだ。〝定番〟の凄みというべきか。きっと、制作側は手を抜かず、マンネリを意識したうえで、内容を吟味して、工夫して世に出しているのだろう…と思う。見るものに阿る必要はないが、かといって侮ってはいけない。《K》

こんな映画を観てきた[24] いちご白書

   いちご白書[The Strawberry Statement](1970/米 監督:スチュアート・ハグマン)

 半世紀も昔のことである。上京した時には、すでの学生運動は〝末期〟だったが、それでもまれにキャンパス内を様々な色のヘルメットをかぶった集団が闊歩していた。しかしあくまでも緩い雰囲気だったことを微かに記憶している。事の発端は、児童公園閉鎖に反対することだったが、やがて大事になって、最後の『サークルゲーム』、そしてサイモン(ブルース・デーヴィスンが警察(権力)に向かって跳びかかったところでストップモーション、あの大ヒット曲が流れてエンディングである。
 リンダ(キム・ダービー)の可憐さに参ってしまい、彼女は前作において、なんとジョン・ウェインと共演(ラスト・シューティスト)したりするのだが、こんな同級生がいたら、主義・信条もあっさり変えてしまっても悔いはない…なんてことに、きっとなる!
キャンパスを占拠した学生が食料調達と称して近所のスーパーに行く、代金を支払わずに…しかし、店主は小声で「これも持って行け」なんてそれを許すのだが、損失分は保険でまかなえるとあって、新米運動家(サイモン)も(観るもの者も)納得するのである。当時は「アメリカだなあ」と感心頻り、となったことを記憶している。
 日本では、映画よりも「いちご白書をもう一度」などという歌の方が大いにヒットしたが、「就職が決まって、髪を切って来たとき・・・」などと言われてしまっては、興覚め、浅い捉え方だと思ったものだ。