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こんな映画を観てきた[61] ナイル殺人事件

   ナイル殺人事件
 (1978/英・米 監督:ジョン・ギラーミン)

 原作は、言わずと知れたアガサ・クリスティである。ナイル川を遊覧する船の上での事件、列車(オリエント休耕殺人事件)、砂漠(死海殺人事件)、孤島(地中海殺人事件)、ステージの大小はそれぞれだが、いずれお馴染みの密室殺人事件の推理ドラマだ。
エルキュール・ポアロにはピーター・ユスチノフ(個人的には、作り込んだアルバート・フィニーがよかったのだが…)、まず殺害されるのがロイス・チャイルズ(007ムーンレイカーでボンドガールに抜擢されてこの頃が絶頂だったか?)、他にジェーン・バーキン、ベティ・デービス、ミア・ファロー、ジョン・フィンチ、オリビア・ハッシー、ジョージ・ケネディ、アンジェラ・ランズベリー、デビッド・ニーブン、マギー・スミス、ジャック・ウォーデン、・・・この中に、犯人がいたり、次に完全犯罪遂行の邪魔になって殺害される人物がいるわけだが、もうそんなことはどうでもよろしい、さぞかしそのギャラだけでもたいへんなことになっていたろうと推察される、豪華を超えて、少々やり過ぎ、〝顔見世興行〟の様相だ。おのずと展開が緩慢で内容も若干薄めになってはしまわないかと心配してしまう。さて結果は?評価はそれぞれだろうが、案の定というか、とりあえず〝クリスティ原作のポアロ物〟ということで、こちらとしては大満足なのである。
詳しくは言えないが…ポアロがミア・ファローに言う…
 「邪悪を心に入れると棲みつきますよ」
 「愛のない心には邪悪も入るわ」(『お楽しみはこれからだ・PART3』和田誠著)
絢爛豪華、どんでん返し、やり過ぎると少々浅はかな事になってしまうこともある。〝邪悪〟はやはり潜むもので、そうした部分は表に出さずにこちらにじっくり読み取らせて欲しかった、そうしないと大団円の驚きも納得するばかりで驚きはない…と当時思ったような記憶がある。

こんな唄に出くわした[32]   矢車の花

   矢車の花

      作詞:小谷 夏
      作曲:中村泰士
      唄:北原ミレイ

  後姿の女の背中に 細い径がある
  径をたどれば女の胸には
  涙の谷がある
  忘れてくれなんて
  言うから忘れない
  矢車の矢車の花を一輪
  もう一度夢ひとつ咲かせてみたい

  恋をなくした女のほほには
  白い河がある
  河を下れば女の瞳に
  涙の海がある
  愛しすぎたことに
  どんな罪があるの
  矢車の矢車の花は乱れて
  実らない恋ひとつしおれて消えた

  想い出さがす女の心に 暗い坂がある
  坂をのぼれば女の住む町
  涙の町がある
  あなたが帰るまで
  心に灯をともし
  矢車の矢車の花を一輪
  諦めたこの胸に飾って待つわ

 同じ唄を小林幸子も歌っていて、こちらは『矢車日記』というタイトルで、〝立派な〟歌謡曲であるのに対して、北原ミレイのものとなると、より裏のうらがありそうで、いずれも沁みるが、くり返し聴き込んでも飽きることなく、つまり沁みこみ方(?)が随分違うのである。

こんな映画を観てきた[60] 友よ静かに死ね

   友よ静かに死ね
  [LE GANG]
(1976/仏 監督…ジャック・ドレー)

 アラン・ドロンの訃報から一年が経った。この人、〝死〟というものに対して、ある種美的なものを感じて、それを作品に持ち込んでいたのかもしれない。この時期の作品では、彼は最後にはよく死んでしまう。ここでも、ラストに近く、強盗先の女主人に銃弾を撃ち込まれてしまい、とはいえ、虫の息であじとにもどり、悲しみにくれる恋人や仲間達に囲まれるのだが、ただでは死なない。内容はというと、プログラムがあるので、確かに見もしたし、珍しく原作(ロジェ・ボルニッシュ、もちろん翻訳)を購入して読んだ。えらく厚く、長い物語だったようだが、映像ともどもあまり記憶に残っていない、そういう一本だったのだろう…あくまでも個人的にということで。
 パリがまだ戦争の傷跡をなまなましく残していた頃。どこにでもいるような平凡なその男たちこそ、実は愛車シトロエンを駈って神出鬼没の犯罪をくりかえして警察の激昂を買っているギャング一味だった…という物語。プログラムには「暗黒街に生きる男を演じるとき、まさにその本領を発揮するアラン・ドロンが、みずから製作・主演」とあるが、本領はまた別のところにあったような…それでも、ドロン自らの製作であることからして、彼の思い通りのスタッフ、キャストを揃えたのだろう。微かな記憶だが、小道具としてのシトロエンなども彼所有のコレクションであったような…それはまた別の作品の事だったかもしれない。

こんな歌を聴いてきた    リリー・マルレーン

   リリ・マルレーン

  作詞:Hans Leip, Nobert Schultze
  訳詞・歌:加藤登紀子
  作曲:Hans Leip, Nobert Schultze

  ガラス窓に灯がともり
  きょうも町に夜がくる
  いつもの酒場で陽気に騒いでる
  リリーリリーマルレーン
  リリーリリーマルレーン

  男達にかこまれて
  熱い胸を躍らせる
  気ままな娘よみんなのあこがれ
  リリーリリーマルレーン
  リリーリリーマルレーン

  おまえのあつい唇に
  男達は夢を見た
  夜明けがくるまで すべてを忘れさせる
  リリーリリーマルレーン
  リリーリリーマルレーン

  ガラス窓に日が昇り
  男達は戦(いくさ)に出る
  酒場の片隅 一人で眠ってる
  リリーリリーマルレーン
  リリーリリーマルレーン

  月日は過ぎ人は去り
  おまえを愛した男達は
  戦場の片隅 静かに眠ってる
  リリーリリーマルレーン
  リリーリリーマルレーン

 もう半世紀も昔のことになろうか、TBSラジオの深夜放送に『パックインミュージック』という番組があって、パーソナリティは野沢那智さんと白石冬美さんだった。そこで、鈴木明というライターを招いて「リリー・マルレーン」をテーマに2時間特番を組んだことがあり、ご丁寧に、カセットテープに録音して何度も聴きなおした記憶がある。テープは長く手元に在ったが、引越したり、肝心のプレイヤーがなくなったりで、今や行方不明だ…でも、物持ちの良さから?まだ何処かにあるかもしれない・・・
 そこで、一番の記憶に残るのが、大戦時、欧州戦線において、敵味方双方がある時刻になると同じ唄をラジオで聴いていたのだという、それが『リリー・マルレーン』だった。さて日本兵はどうだったのか、どうやら日本の軍用車(自動車やら戦車やら?)にラジオが付いてなくて聴かなかくて、ついぞ流布しなかったということらしい。
 〝『ドイツ兵のみならず、イギリス兵もラジオをその波長にあわせ、毎晩耳を傾けた。』歌は戦線を越えたのである。前線ばかりでなく、ドイツ国内でも、「21時57分にはベオグラード放送にダイヤルを」が合言葉になった…。〟(『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』鈴木明著)
  兵営の前 営門のわきに
  ラテルネ(街燈)が立っていた
  それはいまでも立っている
  そこでまた君に逢おう
  あのラテルネの下で
  もう一度 リリー・マルレーン
  ※著者訳

 映画にもなった!『リリー・マルレーン』(1981/西独 監督:ライナー・ベルナー・ファスビンダー)。歌手であり、女優でもあったというララ・アンデルセンの生涯をもとにして物語としたものである。その内容としては、「歌とはあまり関わりなく、印象として弱く、さほど記憶にも残っていないが、この歌だけはずっと心に沁みっぱなしという事に相成った。」と当時のメモにはある。

阪神が優勝してしまった

   阪神が優勝してしまった

 阪神タイガースが優勝してしまった…ぶっちぎりで。まさに嬉しくもあり、それでいてどこかに哀しさ、儚さも残る。2025年9月7日、『2リーグ制となった1950年以降で最も早い日にち』だというが、そんなことはどうでもいい、あとのこと、まだまだ気苦労は続くが、まずはひとまずの解放感に浸ることになる。
10月2日のシーズン最終戦、なんとか勝利して、我が母校の後輩たる先発投手は最多勝利に並び、主力選手はホームラン王としては文句のない40号と 100点を越える打点を達成した。貯金は〝31〟(敗れていたら29でこれはまた哀しいことであったが、なんとか堪えた…)、これも文句はない、というより冷静に見れば出来過ぎだろう、また来年あたり揺り戻しというか、痛い〝しっぺ返し〟をくらう予感が漂う、まことに切ない。
 そして、大病を克服して、その記録にしては、本人としてももしかすると不本意かもしれないが、とにかく明らかにファンの記憶の中にに深く刻まれた選手の引退。主力投手のメジャー行きも取り沙汰されている、これもまた実に切ない。1985年のことで、「生きてて良かった、こんなこともある」と悦びの感慨に耽ったものとしては、2023年のことは、もう〝冥途の土産〟も頂戴して、思い残すことはない…ところではあるのだが、今年、哀しい結果を得ることとなれば、また切なさは残る、そんな面倒な心理が哀しい…のである。

こんな唄に出くわした[31]   哀歌(エレジー)

   哀歌(エレジー)

     作詞・作曲:谷村新司
     唄:八代亜紀

   からだに残る傷でさえ
   消えないことがあるという
   まして心の傷あとを
   抱いて生きるも女ゆえ

   あきらめきれぬ恋ゆえに
   くちびる噛んで身を焦がす
   涙流せば今日までの
   がまんがすべて嘘になる

   帰る家さえない鳥が
   寒さこらえて空を見る
   二度と飛べない空ならば
   かくしておくれ今夜から

   死ぬも生きるもさだめなら
   恨む気持ちはないけれど
   せめて一夜の情けでも
   あれば苦労も耐えられる

   あれば苦労も耐えられる

 文字通り、哀しくもつらい唄である。が、決して〝貧乏くさい〟ものではない。歌詞は暗いが、根底に〝高濃度〟のエネルギーを感じて、従って聴けば聴くほど、飽きず、逆に元気が出てくるではないか。これもくり返し聴くことができる〝沁みる〟唄なのである。

こんな唄に出くわした[30]    黄昏

   黄昏

     作詞・作曲:岸田智史
唄:原 大輔

  枯葉散る 季節になって
  靴音さえも 消えました
  何故でしょうか…
  淋し過ぎて 胸の震え止まらない

  コート無しの 身体寄せて
  歩く二人は 恋人なのに
  追いかけても
  今あなたの 心何処に遊んでいるの

  いつも通りに あの角まで
  送ってくれますか?
  ふりむかないで お別れに
  心が心が 乱れます…

  黄昏の 街を行く
  一人ぽっちの 長い影
  離れてても あなただけは
  陽ざしの中歩いてほしい…

  あなたをもっと 知りたかった
  私をもっと 見せたかった
  それも無理ね… このままでは
思い出さえも壊れそうだもの

  いつもどおりに あの角まで
  送ってくれますか?
  ふりむかないで お別れに
  涙が涙がこぼれます…

  黄昏の 街を行く
  一人ぽっちの 長い影
  離れてても あなただけは
  陽ざしの中歩いてほしい…

 これもまた、何処かで聴いたことのあるようなないような…『秋冬』という曲(別の歌い手のもので知ってはいたが)で出くわした原大輔という人の歌唱である。作者の歌唱でも聴いてみたが、やはりこの原大輔に軍配はあがる…〝沁みる〟ということにことにおいては、あくまでも個人的にそう思う。秋から冬へ、もの悲しさを背景に、そんな雰囲気の中で容赦なく朗々と歌いあげる。聴く側にしてみれば、逆に静かに、穏やかに落ち込んで、切なさに浸っていられるというものだ。

こんな映画を観てきた[59] 追憶

   追憶
  [The Way We Were]
(1973/米 監督…シドニー・ポラック)

 アメリカ、いわゆる〝赤狩り〟の時代、そもそもこの二人が魅かれ合うというのは少々無理があったのかもしれない(バーブラ・ストライザンド、ロバート・レッドフォード)。稀代の二枚目と失礼!!カップルとしても(見かけの話だが…)、二人のシチュエーションとしても、やがてすれ違って当然?まずもってこの〝行き違い〟こそがメーンテーマで、ストーリーとキャスティングがついてきたということか…もしかすると、あのスタンダードにもなったテーマ音楽がまずあって、そこにキャストがついてきたのかもしれない…知らんけど…
『いちご白書』という作品でも同様な設定があったが、こちらは悲劇的な〝その後〟を思わせるラストだった(主人公が恋人の名を叫んで、警官隊の網ににつっ込んで行って、エンディング)が、一種爽快感は残った。『追憶』にはそんな残像はなく、甘いだけのロマンティックな最後だったような…それにしてもこの歌にはまいった、アメリカ映画では珍しく後世に残る一曲となったことに間違いはない…と思う。
「本当に恐ろしいのは…略…、平和のために立ち上がろうとしない人々なのです」(『お楽しみはこれからだ Part2』:和田誠著)、これは冒頭のケイティ(バーブラ)の演説からのもので、政治的社会的背景はともかく、「その通り!」と言いたいところだが、これもまた心の叫びで終わってしまい、せめて権利としての一票を大切にしたいと思うに留める者としては、衝撃ではあるが、どうしても沁みてこない歯がゆさと僅かな負い目が残る。

こんな唄に出くわした[29]    棄てるものがあるうちはいい

   棄てるものがあるうちはいい

  作詞…阿久 悠
  作曲…村井 邦彦
  唄 …北原 ミレイ

  泣きぐせの 酔いどれが
  ふらふら 行く先は
  波しぶく桟橋か 男のいる町か
  ぼろぼろの手紙は 別れのものだろが
  死ぬことはない 泣くことはない
  棄てるものがあるうちはいい

  まだ若い やせた娘が
  泣き泣き 行く先は
  街角のうらないか はずれの教会か
  星のないさだめと うらんでいるだろが
  死ぬことはない 泣くことはない
  棄てるものがあるうちはいい

  家(うち)を出た 二人づれ
  だまって 行く先は
  別々の駅なのか 手紙を書く場所か
  愛さえも疑い くやんでいるだろが
  死ぬことはない 泣くことはない
  棄てるものがあるうちはいい

 『懺悔(ざんげ)の値打ちもない』の続編みたいな楽曲である。同じ阿久さんの曲で当然だが、昭和史に残る名曲…だと勝手に思っている前作に対して、少々地味で、微かに聞き覚えはあるが、大ヒットとはいかなかったかもしれない。製作側としては、北原ミレイにこういった社会性を若干持たせた路線のものを歌わせたかったのだろうか。『石狩挽歌』もそうか?ところが彼女、その後歌い続けた曲を聴くと、どうも納得はしていなかったのか、路線を踏襲したとは想えないふしがある。そんなことはどうでもよろしい…この曲が十分に沁みてくれるものであってくれれば。

こんな映画を観てきた[58] チャンス

   チャンス
  [Beeing There ]
(1979/米 監督…ハル・アシュビー)

 私の好きな映画俳優、女優部門、文句なし第一位のシャーリー・マクレーン、久しぶりの登場である。この少し前に『愛と喝さいの日々(1977)』があり、アン・バンクロフトとのこれもまた好きな女優さんとの共演だったのだが、どうもそのタイトルが嫌で観なかったような…それはともかくとして、『アパートの鍵貸します(1960)』の〝フラン〟からは随分とお年を召された(当然のことである!)が、やはりあの雰囲気は相変わらずであった。ただし主演はピータ・セラーズ、お馴染み?『ピンクパンサー』のクルーゾー警部で、一方に『博士の異常な愛情』といった一面はあるが、やはりコメディの名優である。
 主をなくして、あとに遺された庭師の話で、それまで世間とは全く隔絶されて生きていた人間がその無垢さゆえに現実社会のなかで、そこに大きな影響を与えていく…というものだが、政治に結びつけるのはなんだか成り上がり物語の匂いがして爽快感はない。シャーリー・マクレーンはそんな庭師と社会を結びつける媒介としての役割を担う。