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こんな歌を聴いてきた    心が痛い

 『私は泣いています』も良いが、断じてこちらをとりたい。こうまで直接的に言葉を突き付けられてしまうと、もう反論の余地はない。内向きの〝諦め〟でもなく、かといって打って出る〝抵抗〟の歌でもない、これほどの〝正直〟な心持を歌ったものを知らない。そのハスキーな声が、痛みを更に外連味なく表現してくれた。

  心が痛い
     作詞・作曲・歌:りりィ

   めずらしく街は 星でうずもれた
   透みきるはずの 体のなかは
   氷のように 冷たい言葉で
   結ばれた糸が ちぎれてしまう

     心が痛い 心がはりさけそうだ
     なにも いわないで
     さよならは ほしくないよ

   ふたりの間に ひびわれたガラス
   小さくふるえる うしろ姿も
   終りがきたのを 知らせるように
   だんだん涙に 消えていった

     心が痛い 心がはりさけそうだ
     なにも いわないで
     さよならは ほしくないよ

     心が痛い 心がはりさけそうだ
     心が痛い 心がはりさけそうだ

 りりィには俳優としてのイメージもあって、専門ではない淡々とした演技ぶりで嫌味なく、また観ていてつらくなるような拙さも感じられず、とにかく自然で軋轢なく受けいれられ身に沁みる存在感であった。これは近年特に印象にのこったもので、ドラマ『深夜食堂』(小林薫主演)でのゲスト出演だったが、晩年の〝煌めき〟だったし、存在感と共に素敵な女性だった。

こんな映画を観てきた[34]    007 ダイヤモンドは永遠に

(1971/米・英 監督:ガイ・ハミルトン)

 密輸されたダイヤモンドを使って、レーザー光線を放射するという人工衛星が打ち上げられ、地球上のあらゆる場所が危機にさらされる…現代では、あながち荒唐無稽とも言えないが、とにかくファンタージーではある。テーマは壮大だが、作品としてはいたって〝小品〟といっていいだろう。舞台はあくまでも地上のしかもかなり狭いくらいの空間で、宇宙とは対極の身近な広さであった。
 さてメーンステージはラスヴェガスのカジノ、本来、内部は撮影が禁止されているので、映画でのカジノのシーンは全てセット。ここでは、そのカジノがパーフェクトに再現されていた。 そこでボンド氏はダイスだったが平然と勝ってしまうのだが、高額のチップが無造作にやり取りされるカットはまさにカジノの雰囲気満点!勝負がつけば、お次は美しい女性登場というのがお決まりのコースで、今回はほんのちょっとだったが、 ナタリー・ウッドの妹、ラナ・ウッドがお相手をつとめた。
 半世紀ほども大昔のこと、今では〝聖地巡礼〟というのだそうだが、一度だけそこで本物の勝負?に挑んでみた。こちらはルーレット、まことに倹しい(みみっちい)限りだが、分相応のかけ金といったところ。ボンド氏のようにクールにいきたいところだが、ささやかな勝利に、却って怖気づいてしまうようではギャンブラー失格、黒人のディーラーにお礼のチップを少しおいて早々に退散である。

こんな唄に出くわした[11]    雨の日のブルース

   雨の日のブルース

    作詞:橋本淳
    作曲:筒美京平
    歌 :渚ゆう子

  小雨に濡れている夜の
  ちいさな坂道のクラブ
  淋しい足音を響かせて
  私は一人

   ※暗いブルースを くちづさみ
    昔別れた人のため
    熱い恋の誘惑にたえている※

  真紅の野バラを胸に
  飾って私は今日も
  貴方にもう一度逢える日を
  密かに待ってる
  涙でまつげを濡らしても
  愛しい貴方はいないから
  せめて甘い思い出に浸りたい

   (※くり返し)

 『京都の恋』に『京都慕情』はたしかに渚ゆう子の代表作かもしれないが、ベンチャーズとは無縁の?こんな唄にでくわした。忘れてしまっていたか、発表当時どうしたわけか馴染むことがなくて印象に残らなかったか、今になって〝沁みる〟唄としての登場である。わかりやすい詞、心地よいメロディライン、そしてテンポと、スタッフを見てもまさに流行歌、馴染みやすく淀むところがまるでない、繰り返し聴いて飽きない〝名曲〟である。

こんな映画を観てきた[33]    シェルブールの雨傘

   シェルブールの雨傘
   (1964/仏 監督:ジャック・ドゥミ)

 オープニングのカラフルな傘の往来、シェルブール駅での出征する恋人の見送り、そして雪のガソリンスタンドでの再会と永遠の別れ。台詞が全て音符付きで、そんなことはどうでもよろしい、ただただ一六歳のカトリーヌ・ドヌーブが可愛らしくて…
…フランス北西部の港町シェルブール。自動車修理工の青年ギイと傘屋の娘ジュリビエーブは結婚を誓い合った恋人同士だったが、ギイに送られてきたアルジェリア戦争の徴兵令状が2人の人生を大きく翻弄する…というお話。40年もの大昔、シェルブール駅のホームに立たんと、目指すには目指したが、まだTGVはパリ・リヨン間のみの運行で、ノルマンディー方面へはパリから片道4時間、それを日帰りでというのはさすがに腰が引けてしまい、またTGV乗車の魅力に抗しがたく、結局こちらを選び、シェルブール駅を断念したという記憶がある、微かに。
 半世紀以上も昔(先の東京オリンピックが開催され、そしてこの年、日本シリーズで阪神タイガースが東映フライヤーズに敗れた。日本一になるのは21年も後のことである)の作品でもあり、さすがにすでにリバイバル上映であったが、冒頭の傘が左右上下に交錯するオープニングには圧倒されたものだ。

こんな唄に出くわした[10]    冬の花

   冬の花

    作詞:石坂まさを
    作曲:平尾昌晃
    歌:鮎川いずみ

 怨みつらみが 悲しくて
 なんでこの世が 生きらりょか
 どうせ一度の 花ならば
 咲いて気ままに 散ってくれ

  ※春とおもえば 夏が来て
   夏とおもえば 秋が来て
   所詮最後は 寒い冬※

 夢を追ってく 奴がいりゃ
 嘘に泣いてる 奴もいる
 顔を合わせりゃ 他人街
 誰に遠慮が いるものか

  (※くり返し)

 西を向きたきゃ 西を向け
 北へ行きたきゃ 北へ行け
 そんなもんだよ 人生は
 風に吹かれりゃ それまでさ

  (※くり返し)

 1982年に、「必殺仕事人Ⅲ」の主題歌としてリリースされたそうで、ドラマの中で鮎川いずみといえば、「何でも屋の加代」を長く演じたことで記憶に残っている。特に上手い歌い手だとは思わない(そもそも歌手ではない…)が、不安定な歌い方?もあって、なんとなく沁みてくる、時代背景もよくよく思い起こされるのである。とにかくこのシリーズ自体、このあたりが最高潮であったらしい。西崎みどりのも(『旅愁』、『流星』のは今でも時折聴かれる懐かしのヒット曲だが、これもまた気づかなかっただけで、もしかするとそうした存在なのかもしれない。

こんな映画を観てきた[32]    オリエント急行殺人事件

   オリエント急行殺人事件
 (1974/英・米 監督:シドニー・ルメット)

 「ピエール、タオルが欲しいのだが...」イスタンブール発パリ経由ロンドン・ヴィクトリア駅行き『オリエント・エクスプレス』、 2晩めのファーストクラス 寝台車にて、エルキュール・ポアロ(アルバート・フィニー)が個室の扉から顔だけ出して、車掌のピエール(ジャン・ピエール・カセル) に声をかけた一言で、厳密には間違っているかもしれないが、 とにかくこう覚えている。髭を整え、ハンドクリームを丁寧に塗り込んで、 シルクの手袋をして新聞をつまむようにページをめくり、消灯して、やがて事件の時を迎える。
 演者も舞台も豪華絢爛の極致で、宮殿に派手な衣装で大舞踏会とは対極的な小さい空間で、さらに加えて旧ユーゴの山越えでの大雪に閉じ込められた深夜、 ミステリーにとってこれ以上の舞台設定はないだろう。ストーリー自体はすでによく知られていて、“謎解き”の愉しみはないが、事件前の緊張感、 そしてポアロが容疑者の一人ひとりを“平等”に追い詰めていくプロセスはさすがの演出だと思い知らされる。 “大スター”の面々、誰一人として“遊んで”はいない、 いや、手を抜いていない、むしろ“やり過ぎ”くらいだ。
 それはともかく、その昔、この台詞を使いたいと乗り込んだ寝台列車(ヴェネツィア・サンタルチア駅発パリ・東駅行き)だったが、ついにそのチャンスは訪れず、 またその勇気もなかった。
 「クッダイハブ サム クリーン タオルズ?」カタカナで書くとこうなるか・・・

こんな映画を観てきた[31]    ミスター・アーサー

   ミスター・アーサー
 (1981/米 監督:スティーブ・ゴードン)

 莫大な遺産相続を棒にふって愛する女性の許に走る放蕩息子を描くラブ・コメディ。よくあるお話ではある。
 ニューヨークの大富豪の御曹子アーサー・バック(ダドリー・ムーア)は、父親の言いつけに従って、ある大富豪の娘との結婚をとって巨額な財産相続権を譲り受けるのか、それとも夢を抱いて明るく生きるリンダ(ライザ・ミネリ)への愛をとって無一文になるのか、果たして…
 結局のところ、万事まるくおさまって、何一つ欠けることなく主人公の〝利益〟は確保されるという、いかにもアメリカ的なハッピーエンドではあった。都合がよすぎるとも思えるが、あくまでもファンタジーとあれば、これ以外の結末はないのだろう。これが欧州特にフランス映画などであったとしたら、こうしたエンディングにはならなかったろう、何かを犠牲にしたり、失ったり、どこかしらに悲劇の余韻を残したはずだ。もちろんどちらもそれぞれである。この作品で、忠義で教養ある執事のホブスンを演じたジョン・ギールグッドが第54回アカデミー賞の助演男優賞(1982年)を受賞したことは、まことに目出度く、『オリエント急行殺人事件』では不完全燃焼だったが、朗報であった。

こんな唄に出くわした⑨    ひとり泣く夜のワルツ

   ひとり泣く夜のワルツ

 発売は2008年、江利チエミさんといえば没年月日1982年2月13日(45歳没)だということだから、亡くなった後に発売されたようで、平成の唄というべきなのかみしれないが、このあたりの事情に興味はなく、とにかくこれが“昭和の沁みる唄”であることに間違いはないようだ。

 ひとり泣く夜のワルツ

     作詞:矢野 亮
     作曲:吉田矢 健治
     歌 :江利チエミ

   花が咲いても 淋しくて
   花が散ったら なお悲し
   誰が私を こうさせた
   夜が 夜が泣かせるの

   好きと何度も 書いた文字
   いつか涙で 溶けてゆく
   どうせ貴方にゃ とどかない
   夜が 夜が泣かせるの

   酔って忘れる お酒さえ
   思い出させる 苦い味
   胸にせつなく なぜ沁みる
   夜が 夜が泣かせるの

   とぎれとぎれの 夢にまで
   追えば遠のく じれったさ
   醒めりゃやつれた 影ばかり
   夜が 夜が泣かせるの

 サザエさんも、シンガーとしても、そして“悲劇”のヒロインとしてのイメージも全て彼女なのだが、それぞれが時系列上際立っていて、実に歴史的な存在であった。これはどうしたことか?明るさも、おかしさも、悲しみも兼ね合わせて持っていた、「おかしゅうて、やがて哀しき…それでもやはりハッピーエンド」、実にアメリカ映画的な人であったと個人的には思っているが、ただし“ハッピーエンド”であったかどうか、傍から見れば「そうではなかろう」というところだが、それは本人のみぞ知る…である。

こんな歌を聴いてきた  エレーン(2)

   エレーン

 当時(昭和50年頃か)、あまりに内容のドラマチック性からかえって話題にならなかったか、ヒットしたような記憶はないが、文句なく〝昭和の名曲〟である…と思っている。実話をもとにした歌だという人もいるけれど、とにもかくにも全篇胸に刺さる歌詞なのである。
かつて
中島みゆきの『エレーン』とジャニス・イアンの『ラブ・イズ・ブラインド』、夜中に聴いてはいけない歌の双璧であるとかねてから“主張”してきた。何故なら、まわりの静寂と相まって死になくなってしまうからだ。
    …
名曲だとは思うが、とても長く聴いてはいられない、飽きるといことでは決してない、どうにも辛いのである。
と、記したことがある。

    エレーン
      作詞・作曲:中島みゆき

風にとけていったおまえが残していったものといえば
おそらく誰も着そうにもない
安い生地のドレスが鞄にひとつと

みんなたぶん一晩で忘れたいと思うような悪い噂
どこにもおまえを知っていたと
口に出せない奴らが流す悪口

みんなおまえを忘れて忘れようとして幾月流れて
突然なにも知らぬ子供が
ひき出しの裏からなにかをみつける

それはおまえの生まれた国の金に替えたわずかなあぶく銭
その時 口を聞かぬおまえの淋しさが
突然私にも聞こえる

エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない

流れて来る噂はどれもみんな本当のことかもしれない
おまえはたちの悪い女で
死んでいって良かった奴かもしれない

けれどどんな噂より
けれどおまえのどんなつくり笑いより、私は
笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う

今夜雨は冷たい
行く先もなしにおまえがいつまでも
灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
ひとつずつ のぞいている

今夜雨は冷たい

エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない
エレーン 生きていてもいいですかと 誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない

 これは沁みるなどというレベルではなく、打ちのめされてしまう、40年を経ても尚その圧は凄まじく、聴く者を無抵抗にしておいて、そうしておいたうえで情け無用にそこらあたり引き摺りまわす、あとは暗いだけのまさに闇である。そんな中に置き去りにされて、もうどこへも行けない、悲しみも怒りもなく、ただ肩を落として立ち尽くすのみだ。

目くらましにもならない

 断水に苦しみ、給水を待つ行列を横目に、大きなイベントを強行し、何かが西から飛んできたと、いたずらに?不安を煽り、事の優先順位の認定を操作しようとしている…としか思えない状況、腑に落ちないことばかりだ。まるで、現場を見つつも別の何かを重要視する姿勢にはあきれるばかり、いったい何処を、何を見て日々を過ごしているのかと余計な勘繰りもしてみたくもなる。いう事やる事は、概ねピント外れ、とにかく〝ずれている〟ように見えてしかたないのだ。それでも、何も変わらないのだろうか。時をやり過ごして、人は忘れ、或いは忘れたふりをせざるを得ない事態の中で、現状を肯定してしまう…これは善循環なのか悪なのか、その判断すらも有耶無耶になって、虚しさだけがあとに残る、悲劇であり、喜劇でもある。ただ何とも情けないことだけは確かだと思うのである。誤魔化しと、言い逃れ、更に逃げ隠れ…そんなに人を馬鹿にしなくても…と言いたくもなる。