月別アーカイブ: 2013年9月

夜の訪問者1982  フランクフルト(独)2

2. 狙われたスケッチブック

 フランクフルト駅構内の郵便局で葉書を出す。週末のせいか、混んでいるわりに窓口が少ししか開いていなくて、女性職員はすこぶるご機嫌斜めだった。彼女はつり銭を投げるように渡した。
 駅から10分ほどの『ゲーテハウス』へ。入館料2DM、職員が日本語の案内書を示すので仕方なく頂戴しようとするが、これがさにあらず、しっかり有料で、いまさらつきかえすこともあたわず結局買わされてしまった。記念にとドイツ語版も併せて都合6DM。大戦による全壊の後、焼け残った物を集めて再興したとのことで、建物自体は新しいもので、かつ資料も量的にいささか貧弱と言わざるを得ないようだ。ただゲーテが一時住んでいた“跡地”というだけのことと言ったら言い過ぎか...
 遠足か何かで大勢の子供たちがとても賑やかだった。ゲーテはれっきとした貴族で、実際の家も立派な邸宅、人間、悩むにもそれなりの資産が必要なのだ。
 マイン河畔散策、驚かないが相当に汚い川だった。それでも川沿いの古い教会が歴史を物語っていて、これで水がきれいだったりしたらかえって絵にならないかもしれない。古さと汚さは紙一重だが、欧州の風景はその汚ささえも歴史の一部としているのかもしれない。駅前のマクドナルドでチーズバーガーとコーラ(4.90DM)。
 ホテルに戻ると日本から有名な名前のついたパックツアーの団体が到着していた。
 市内観光か何かで、一人メンバーが足りないと大騒ぎ、本人はともかくとして添乗員には心からご同情申し上げる。このホテルは駅のインフォメーションで紹介されたのだが、どうやら料金的にも日本人観光客のための定宿ということらしい。何の心配もなく移動し、手配された観光バスにおとなしく乗り込む人々、“ひとり旅”としては、それが嫌でひとりでいるはずなのだが、疲れてくるとついつい羨ましくも思う。
 団体のオプションツアーには参加しなかったのだろう、二人の初老のご婦人がフロントでタクシーを呼ぼうと係りを相手に悪戦苦闘していた。
 突然フロント係りがロビーに居た私を指差して何か言った。あいつに相談してみなさいということらしい、逃げるわけにもいかず、しかたなく近寄るとやはり団体行動がいやで、二人で散歩したり、スケッチでもして過ごしたいということだった。
 「市立美術館まで行きますが、途中までご一緒しますか」と言うと、「お願いします」とさっそく出掛ける態勢。添乗員に単独での行動を慎むようよくよく言い含められているらしく、お決まりのコースをたどるだけでは飽き足りないが、かといって思いきったこともできずにいるといった趣で、緊張の表情のまま黙って私のあとに従った。
 マイン川を渡って、川辺に下りた所で別れた。少々心配ではあったが、心置きなくスケッチもしたいだろうし、こちらとしてもこれ以上お付き合いする義理もない(余計なことをしたと少々後悔もしたが、ホテルまで15分から20分程度の距離でもあったし、決して本人たちの心配をよそに置き去りにしたわけではない)。
 「この時季、遅い時間まで明るいですが、やはりできるだけ早めにホテルにお戻りください」と言い置いて別れた。
 ホテルで夕食。
 前方のグループ席に日本人の団体が陣取っていた。二人のご婦人を目で探すが見つからない、場所も広く暗いこともあって見つけられないだけのことかもしれない、添乗員にたずねるのも億劫だし、フロントに確認するのは余計に面倒だ。それでも食事を済ませ、儀式のごとく最後にビールをお代わりして部屋に戻った。
 翌朝、身支度を済ませ、荷物一式を持ってレストランへ、朝食。やはり日本人だらけでさながら日本食堂の雰囲気だ。
 その中に先のご婦人をようやく見つけ、目があって軽く会釈が返ってきた。一安心だがいやな一夜を過ごしてしまった。今後は決して身の程知らずなお節介はよしておこうと思うことしきりだった。

夜の訪問者1982  フランクフルト(独) 1

1. 夜の熱気の中で

 『ラインゴールド号』をマインツ駅で降りてフランクフルト行きに乗り換えた。アムステルダムから一緒になったS嬢はそのままミュンヘンに向かい、そこで友人と合流するという。それを淡々と見送り、いとこに会うというY夫妻とともに乗車して30分ほどで到着した。
 ホームで待ち合わせの夫妻とも別れ、両替所とインフォメーションセンターでいつもの仕事をいつも通り済ませた。そこで紹介されたビジネスホテルを3泊予約して手数料込みで150マルク。トイレ、シャワー、朝食付きでこの値段なら、いわゆる“チーパー・ワン”ではないが、決して高くはない。格好は相当に薄汚れてきているが、バックパッカーではないということで、そこそこの宿を紹介してくれたということなのかもしれない。
 なるべく目的の駅には午前中か、もしくは午後の早い時刻に到着することにしている。おいおい寝台列車での移動が多くなり、それはそれで宿代の節約にもなるが、それも程ほどにしないとやはり疲れる。結局、分不相応の高いホテルのご厄介になって、一日寝ているというのでは元も子もない。
 それよりも暗くなってから初めての街で宿を探すというのは実に心細いことで、妥協もしがちになる。宿探しも旅の愉しみのひとつとして、じっくりと希望に合ったものに行き当たるまで粘る。もっとも、これもやはり程ほどにしないと、『インフォメーション』でうるさがられて、親身になってもらえないことにもなりかねない。言葉の問題もあって端から無理はしないけれど...
 今にして思えば、この時ベルリンの壁崩壊間近ということで、殊にドイツ社会は騒然としていたに違いないが、暢気な旅行者には、駅の周辺でやけに多くの若者が蠢いている印象を持つ程度だった。それでも暗くなるにつれて、その雰囲気は暴力的な空気すら帯びていくのを感じていた。
 もしかするとこの時点では、渦中にある人たちにしても、誰も何が起きるのか見当がつかなかったのかもしれない。
 ホテルのロビーで休んでいたら、昼間のビールが効いてきたのか、突然猛烈に眠くなった。部屋に戻って少しだけ横になるつもりがすっかり眠り込んでしまった。目覚めると夕食にしても少々遅い時間になったが、とにかくホテルのレストランに行ってみる。
 まだまだ盛況で、凝りもせず再びビール、もう徹底的にビール、そしてチキンのワイン蒸し(英語で“カルテ”にチキンだとか、ワインだとか書いてあったので注文したら、出て来たものがこれ)を食べる。ビールを更にお代わりして28マルク。帰りに30マルク支払うと1マルクコインを1個と、50ペニヒコインを2個がおつり、要するに50ペニヒ2個はチップ用にしてほしいということらしい。「ダンケ」と言っておつりを全部渡す。粋ではないが、疲れもピークで傲慢な態度とも言えないだろう。

夜の訪問者1982  アムステルダム(蘭)

   1. 飾り窓には近づかない
 
 始まりはアムステルダムの夜。
 ジェームス・ボンド(ショーン・コネリー)は、エレベーターの格闘で敵を倒し、自分のIDカードを相手の懐に忍ばせて、倒した相手になりすました。そして女(ジル・セント・ジョン)に近づいた。(007/ダイアモンドは永遠に)
 中央駅を出て、ダム通りを少し歩くと“ダム広場”に出る。
 昼間の“トゥーリスト・メニュー”(旅行者向けのセットメニュー、注文しやすいだけで美味くもない。すいた店を選んでしまった報いかもしれない)がまだ胃の中に不快に残っていた。
 広場から東へ入ると汚い運河に出た。このあたりが所謂“飾り窓地帯”ということらしい。まだ明るさの残るうちは、何と言うこともない風景だが、やはりどこかしら、いかがわしい雰囲気がないでもない。
 運河に架かる橋を行きつ戻りつ、“見学”する、その気もないくせに、自分を煽り、やがて追われるようにその場を去ってしまった。
 宿に戻り、部屋のドアを開けると、待ちかねたようにオーナー夫婦の飼い猫が先に入り込んだ。ベッドに腰をおろすと、今朝出会ったばかりの気安くもないはずの私の膝の上に乗ってきた。こちらの疲れなどおかまいなしだ。これもまたまるで見張っていたかのように老オーナーのノック。開けるとひとしきり詫びの言葉を並べて、やり取りをながめていた猫を抱いて出て行った。
 本当におかまいなしだ。
 
 
   2. 駅はいつも事件の舞台

 トラム1番に乗って、アムステルダム・中央駅へ。マインツまでのラインゴールドTEEの予約である。
 駅の予約センターにて...
 窓口で予め用意しておいた予約のメモ(列車番号、日付など)を渡すが受け付けてくれない。「Twenty-seven」だと言う。彼女の指差す先を見ると表示板があった。
 要するに私の番ではないらしい。気を取り直して、周りの状況を観察し、なんとなくそのシステムがわかってきた。
 まず入口を入ったところにある六角形のボックス(中に女性が二人)でだいたいの依頼内容を言うと(私は先のメモを見せる)整理番号をくれる。これでその内容によって順番と窓口が決まるというわけだ。私のもらった番号は「E-76」、まだかなり時間がかかりそうだ。
 なんとなく状況がつかめ始めた頃、どこからか「どうすんの?」と日本語が聞こえてきた。
 教えてあげるべきだろうが、こちらとしてもその余裕が持てないでいた。
 それはともかく、この順番がなかなかまわってこない。一人一人によほど時間をかけているのか、それとも順番がきても現れない客をじっと待っているのか、表示板の数字がなかなか動かない。
 公明正大、かつ並ぶ必要もない誠に結構なシステムだが、これはむしろ職員のためのものに思えてきた。こう時間がかかっては日本であったら、トラブルの一つや二つ起きてしまうことだろう。
 待つこと1時間半、ようやく私の整理番号「E-76-10」の表示がなされた。
 窓口で先のメモとユーレイル・パスを出す。この担当者が悔しいことにとびっきりの美女で、不覚にもそれまでのイライラも雲散霧消のなさけなさで、メモを見ながらコンピュータに照会する様子をうっとり眺める仕儀とあいなった。
「Smoke?」と言うので、「Yes」。切符(正式には座席指定券)が出てきた。そこに私の名前を書き込んで、日時と号車及び座席番号を説明してくれた。予約料金4ギルダー、にっこり笑って「Bye-bye」、私はだらしなく「Thank you」、これで予約が完了した。
 待つ者たちは、おのおの窓口カウンターの前に座り込んだり、カウンターに飛び乗って腰掛けていたり、先の日本人グループのような例外もあるが、誰も文句ひとつ言わないでおとなしくただただ待っていた。それは決してのんびりとした明るさとは違っていて、どこか暴力を内に秘めた退廃の暗い本質を覗かせているようだった。
 ホテルに戻って、老オーナーに「明日は早出をするので、今支払いを済ませたい」と予約の列車指定券を見せつつ申し出ると、「よろしい」と、すぐにレシートをきってくれた。前払い分を差し引いて97ギルダー、「朝食分として食事を今夜君の部屋へ持って行ってあげよう。明朝はキーを部屋に置いてそのまま出て行きなさい」、わかる部分のみかいつまむとそういうことだった。
 屋外の妖気漂う闇とは対照的な壁のこちら側、そのコントラストこそが、ヨーロッパのもつ深い歴史の“淵”の根拠なのかもしれない。