月別アーカイブ: 2015年5月

紫陽花

 品川通りの終点近く、団地北の交差点の北西の角地に建設会社の資材置き場があって、一本更に北の路地を左に入るとその真裏に出る。そこはちょっとした雑木林の態で、小さいながら鬱蒼とした様子は、実際には放置された空間というべきなのだが、手付かずは言い過ぎとしても住宅地の緑の拠点として十二分に存在感を示していた。白木蓮が終わり、表通りの歩道につづく躑躅も盛りを過ぎて、まだ入梅にはもう少し間がある時候だが、一足先に決まって一塊の紫陽花がまだまだ全体としては浅い緑色のままだが、よく見るとかすかに紫がかった箇所がちらほらと現れ始めてやがて6月が始まる。

藤原摂関家に直結?!“平安ワールド”な藤の花

 藤原北家に源氏物語、藤壺に言い及ぶまでもなくその名も“平安時代”に想いも馳せる『国領千年乃藤まつり』当日(2015年4月29日)の國領神社境内 【東京都調布市】には、永く名所の誉れ高いその藤棚を目当てに大勢の人が訪れておりましたが、季節はずれの暑さのせいか盛りを過ぎて、哀しいこと にすでに散り始めていました、されど、それも一興であるか...

長年のボディブローが効いてきた?!そして“思う壺”...

 名前の連呼は“時代錯誤”というよりも、むしろあれはどうも「関心を持つな!できればしばらく、いやずっと寝ていろ!」と言われているとしか思えない。何の主張もないただの“垂れ流し”だとするならば、これは“迷惑”という他になんの意味も価値もない通りに散乱するゴミ以下であり、できれば遠巻きどころか、近寄りたくもないし、さらにそれにクレームをつけようなどという気にもならず、カラスさえも目を背ける“始末のできない”状況なのである。なるべく閉じこもって、できれば耳を塞いで、目を瞑って、ただ時を無為にやり過ごすこととなり、これはもしかすると“思う壺”ではないのか。“厄介”なものをなるべく遠くの場所どころか別の世界に追いやっておいて、障害もなく事を進めようということなのだろう。とどのつまり、選択という人としての基本的な“権利”すら奪ってしまう『無投票』などという怒りを越えてただただ呆れる事態がまかり通ってしまうに至り、まさに“世も末”なのである。気がつくと、抜き差しならないことになっていたということにならないかと心配しきりの昨今だが、もしかするとすでにその袋小路、あり地獄に抵抗する暇も与えられず誘導されてしまっているのかもしれない。
 しかし...それでもまだ『何かてはあるはず』だと諦めたくもない。馬鹿にしたくも、されたくもないが、ある程度のおためごかしでもかまわない、せめてもの“プライド”と“覚悟”を見せてほしいし、判断するための材料を何はともあれ示してほしいところだ、それがなければ『何とか創生』など、絵に描いた餠どころか、危険であり、“くだらない”では済まされないむしろ極めて“罪深い”スローガンであるといわざるを得ないだろう。