月別アーカイブ: 2015年9月

シネマの晩餐 Ⅱ

 『ゴッドファーザー』の原点は、フランス映画の『シシリアン』にあると聞いた、或いは何かで読んだ記憶があります。“ドン”がいて、“ファミリー” を構成しているというのがベースにあって、音楽もまたニーノ・ロータで、むしろこちらの暗いけれどテンポのある旋律の繰り返しが個人的には好みでした。
 余談ですが、この『シシリアン』でこの時の製作者(?)が“大御所”ジャン・ギャバンに“新鋭”アラン・ドロンとの共演をお願いしに赴いたところ、「あいつを殺してしまう役なら受けてもいい」とギャバン氏が言ったとか、実際“裏切り者”としてラストで射殺してしまいました。もっとも、この後二人は再三にわたって共演することになります(『地下室のメロディ』『暗黒街のふたり』)。
 さて『ボルサリーノ2』。前作で、もともと“不仲”で、“あり得ない”と言われたジャン・ポール・ベルモンドとの共演を果たしたドロン氏ですが、そこで殺害された相棒の“敵討ち”というのが何とも皮肉な本作の筋です。
 “食”については、仇敵ボルポーネ兄弟(リカルド・クッチョーラの2役)の弟を“始末”する場面、実際にはすでにギャルソンが食後酒を運び、(殺される)当人も新聞を読んでいるのですが、豪華列車での食事の風景はいかにもフランスといった趣で、直後に殺害されてしまうことも“コース”として組み込まれているかの如き暗く重たい雰囲気に覆われておりました。
 大好きな鉄道を“凶器”(まず列車から突き落とし、仕上には機関車のカマドに放り込む)にしてしまうことには、どうにも複雑な印象を持ってしまいますが、雌伏3年、ジェノヴァから軽快なあのピアノのメロディに乗ってマルセイユに向かう一台のトラック、幌には「ボルサリーノ&カンパニー」の文字が痛快です。あとは“仕事”を片付けるばかりであります。【ボルサリーノ2(1975/仏)】

シネマの晩餐 Ⅰ

 イスタンブールのいかにも高級そうなホテルにて、料理にご不満のポアロ氏は久々に再会した友人に言います。
「メニューや食器ばかりが立派な料理、そしてコーヒーに至っては...」とアイスペールに流してしまいます。
 これが、オリエント急行内の食事では一転して、バルザックまで引用して賞賛の言葉を惜しみません。
 発車直前の食材を積み込むシーンで、車掌(おそらくチーフでしょう)がチェックをするのですが、そこで生牡蠣をすする光景は、その食感が苦手でふだんは決して手を出さない者でも思わず試してみたくなってしまうほどです。これを見せておいてのポアロ氏の言葉ですから、“ワゴン・リ”内での食事のすばらしさは余計に際立ちます。【オリエント急行殺人事件(1974/米)】

責任ある後始末…鑑想記#073

故郷への長い道:スター・トレック 4【1986/米】
スター・トレック 4

 《時は23世紀。地球は破滅の危機に瀕していた。それを救う唯一の方法は、過去の世界にあった。カーク提督、スポック艦長、ドクター・レナード“ボーンズ”マッコイ、彼らは数々の危険な冒険の経験者だ。しかし、今回の旅だけは未経験だった…1986年のサンフランシスコなど、見たことがなかったのだ---。》

 前半は、何やら『2001年 宇宙の旅』を彷彿させる“謎の探査船”、重要な役目だがあまり存在感がない。しかしストーリーを面白く、しかも淡々と追っている点は好感が持てる。

 ただ、鯨を扱うシーンは、反捕鯨キャンペーンの色濃く、映画の中での唯一の悪玉、捕鯨船(日本の捕鯨船だったらどうしようかと思ったが、おそらくあれはソ連船か北欧のものだろう)の取扱いなど、捕鯨反対の意識が頑ななまでに表に出ており、一歩間違えば『偏向』と言われても仕方のないところだ。アメリカ人だけが絶対に正義で、鯨を食べるなど悪魔の所業だと非難するつくりにはいささか後味の悪さを覚えた。

学ぶ真似は良いけれど、やはり“ならぬことはならぬこと!”でしょう...

 九月の花で極く一般的なものを探したら、『彼岸花』に続くのが『鶏頭(けいとう)』ということになろうか。他にもたくさんあるが、いずれもその名に馴染みがない(要するに知らない)。花が鶏の鶏冠(とさか)状に見えるのでこの名前になったこの花は、世界中のどの人が見ても“鶏のとさか”に見えるのだろう。英語でも「cocks-comb」(鶏のとさか)というらしい。

 さて、あまりにも有名になったあの、例の“マーク”であるが、もう世界中の誰が見ても“アウト!!”ということになった。ストライクワン!ツー!!と続いて、見送りか空振りかはどちらでもいいが、とにかく“三球三振、バッターアウト”、加えて守りにつくこともなく、即刻“退場!”で幕が引かれた(すぐにみんな忘れてしまうだろう)。誰が見ても同じイメージを抱く、そして抱かせるべくその展開を企て実行するのがデザインであり、デザイン戦略である。その一角がアウトであれば、全体がアウトになる厳しさは当然だが、提案する方も、採用する方も、またそれを評価する(見せられる)側も、いずれもバランスを欠いた混乱ぶりを呈し、落としどころどころか“空中分解”からの“雲散霧消”で、何の解決も見ないまま時の経過で誤魔化されようとしている。学ぶ段階においては、模写なり、引用なり、真似ることはむしろ推奨すべき手段なのだろうが、世に問うとなると、個人と社会の双方の側に、少々覚悟と準備が足りなかったというべきだろう。