月別アーカイブ: 2015年12月

永遠の孤独…鑑想記#078

ミスターグッドバーを探して[LOOKING FOR Mr.GOODBAR](1977/米)
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 何故に彼女は孤独にならなくてはならなかったのか、街をさまよう彼女の瞳は子供達を優しく見詰める昼間のものと何等変わりはないのに、何故彼女は夜毎その扉を押すのか・・・
 或る日、彼女は“血”に対する疑惑を解くために不妊手術を受ける。一見冷ややかにも思えるその行為は、最も愛するものへの優しさに満ちた答えであったと信じたい。不幸な“血”は此処にこうして途絶えた・・・
 残された肉体と、隙間だらけの心はそれ以降激しく、それでいて冷たく燃焼し続ける。
 そんな彼女に、街は決して理解を見せない。酒もコカインもそしてセックスも彼女にとっては断片に過ぎない。彼女を優しく包むものは何処にもない。探しても見つからぬものをあなたは何故そんなにまでして探すのか。探すことだけがあなたにとって存在の証だったのか?!
 あなたが背中の傷に支配されつつ生きたように、私もまた日常に支配されつつもやはりミスター・グッドバーを探し続ける、そうすることだけが存在の証だとすれば、もはや何も思い残すことはない。...1978年3月記

珍しくも、批判の嵐!…鑑想記#075

ハリケーン[HURRICANE](1979/米)
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 覚悟はしていたが、本当に疲れる映画だった。早い話が大嵐が南の島を襲い、“そして誰もいなくなった”というものだが、はて、内容はというと何もかもが漠然としていて、いっこうにはっきりしない。神の怒りが邪悪なる物を消し去り、許されないながら、何よりも強い“愛”を“ノアの箱舟”に乗せて新しい世界に送るという、天地創造的な話なのか、それとも人知を超えた自然の驚異を文字通り常識外れの金額をもってスクリーンに再現しただけなのか、まだその他にも何かあるのか、どうにも釈然としない。
 「面白くないものは映画ではない」なんてラウレンティウス氏はおっしゃっているらしいが、それにしては題材自体、大鮫が出たり、宇宙人が登場するといった程センセーショナルなものでもないし、配役はともかく、それぞれの人物の描き方などかなりいい加減で、ヤン・トロエルなんてたいした監督だとも思えない。ティモシー・ボトムズが演ったジャックに至っては存在自体全く意味がない、彼がよくこんな何の得にもならない役を引き受けたものだと不思議な気さえする。ラウレンティウスの集金能力は映画製作上、敬服に値するが、『キングコング』同様、金を使えばいいってものでもない!マタンギ役の新人はともかくとして、非常に興味深い女優として以前から注目しているミア・ファロー、ジェイスン・ロバーズ、そしてマックス・フォン・シドー等これだけの名優を揃えたにしては何とも不満足な作品といわざるを得ない。もっともミア・ファローに関しては、『ナイル殺人事件』の時にも感じたことだが、舞台が大きくなればなるほど、その“特異”とも言える存在感が逆に稀薄になってしまう。『フォロー・ミー』のような面白味がまるでない。それぞれがそれぞれのキャラクターを演じ切る舞台の設定と展開があまりに大雑把過ぎた。
 後半の嵐を効果的にスクリーンに登場させる序曲としては、どの部分をとっても余りに内容がない。全く大嵐だけの映画になってしまった。その嵐にしてみても、台風に馴れている日本人にとっては、圧倒される程のものでもない。「二人の愛はやはり何事にも負けることはない強いものだった」、まさかそんなことのためだけに大きなセットを組んだ訳でもあるまいが、もしそうだとすると、この二人の結びつきは不自然さを通り越して、いやらしさすら感じて、うすら寒いものを覚える。南の島の男と白人の女が恋に落ちると映画になるとでも思っているのか、映画製作に対して真面目さに欠けるとあえて言いたい。
 確かに、激しい嵐とうねる波は凄かったが、内容もなく、画面と音にただただ疲れさせられた『ハリケーン』ではあった。
   ………
 「どんな作品でも、“良きところ”を探して、そこを褒め愉しむ」という淀川先生の教えを守る方だと思うのだが、35年前のこの映画を観た日、余程落胆したか、珍しくも過激にこき下ろした自分が意外だが、それほどつまらないものだったということなのだろう...

30年経っても、変わらない憂鬱…鑑想記#076

ウォー・ゲーム[WAR GAME]【1983/米】
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 1984年(昭和59年)はこの映画で始まった。年の始めとしては物騒な作品になってしまったが、パソコンとかニューメディアとかいったものが映画のテーマになる時代が本格化したということだろう。SFに終始するのではなく、それが現実に近いかたちで描かれ、しかも無理がない、つまりそういう時代なのである。
 話は地下に隠された核ミサイル発射基地から始まるが、ここではヒューマニズムに左右されて発射ボタンを押せなかったという、物語としては実に古典的なオープニング。これがまぁ伏線といえば伏線なのだが、ほんのきっかけといったところ、大した意味はない。このあたりのことを言いたかったのかもしれないが、あまり語り尽くせなかったところがかえって良かった、ヒューマニズムなどというものは場合によっては興醒めであろう。
 場面はかわって、出来の悪い高校生、でも何故かコンピュータには滅法強く、自分のパソコンと学校のコンピュータとを接続させて、成績評価を打ち直してみせたりする。そしてゲーム製造会社のコンピュータとオンラインさせ、その新製品をちゃっかり一足先に愉しもうとしたのだが、どういうわけか軍のコンピュータにつながってしまった。展開としては何とも安直ではあるが、これしかないという感じ、あとは大体想像がつく。話そのものは他愛ないものだが、ラストのクライマックスは一見の価値ありといっていい。司令部内のディスプレイが全面核戦争をシミュレートする。交錯する光の芸術はそれが何かを忘れさせる程美しい。コンピュータがミサイルを発射してしまうというスリルはそれほど感じられず、ハイ・テクノロジー過信の社会に警鐘を打ち鳴らす程のものでもなかったが、かえってそんなものは不必要であり、大袈裟でないところがこの作品を面白くまとめることができた最大の要因であったといえるのかもしれない。役者には見るべきものはなかったが、この作品はあくまでスタッフの勝利といっていいだろう。
 パソコンを少しでも叩く者にとってテーマが身近であり、興味深かったが、もう少し主役のデビッド(マシュー・ブロデリック)にパソコンの前で芝居をさせたかった。製作側が提言とか理屈とかを捨てきれなかったのかもしれない、近未来とヒューマニズムを語るのはまだ早い。
 さて、この作品から30年を経た現在(2015年)、このテーマはすでに過去のものになっているか?進化どころか、何も変わっていないような、むしろより深刻な状況になっているような気配がしないでもない...

こんな歌を聴いてきた

 新幹線の中で、私製の〔昭和のマイベスト〕を聴く、ひとり別世界。『八月の濡れた砂』、『日翳りの街』(『ごめんね』に『オールド・タイム・ジャズ』などお気に入りは数知れずも、此処には収納していない)、『池上線』、『異邦人』、『東京』、『さよならをするために』、『わたしは泣いています』(『心が痛い』の方がまさに心に痛いが…)、『22才の別れ』、『踊り子』(静岡駅通過)、『アデュー』、『流れ者』、『どうぞこのまま』、『たそがれマイラブ』(熱海駅通過)、『祭りのあと』、『雨だれ』(『さらばシベリア鉄道』が続く)、『青春の詩』、『雨の日の情景』、『亜麻色の髪の乙女』、『時代遅れの酒場』、『残り火』(『時計』や『運命』もいいが、収納はこれにした)、『シングルアゲイン』、『思い出は美しすぎて』、『くちびるよ熱く君を語れ』、『ひとり上手』(夜中に聴いてはいけない曲といえば、『エレーン』〈中島みゆき〉と『恋は盲目』〈ジャニス・イアン〉、これはもう死にたくなってしまう)。
「あと5分ほどで終点東京です」
 他に、『懺悔のねうちもない』(映画『八月の濡れた砂』の中でも使われていた…なんと、教会で歌われた)も入れておこう。『プカプカ』というのも外せない。これに、その昔スナックでよく唄った“ムードコーラス歌謡曲”と演歌(子供の頃、買ってもらったか、小遣いで買ったか憶えていないが、小さな卓上ステレオを手に入れて、初めて買ったLPレコードが、森進一の『盛り場ブルース』であったことだけは記憶に残っている)と、フォークソング(と言われたものたちの中から)をそれぞれ少々、それらが加われば完璧だ。
 ちなみに、初めて買った洋盤はクリフ・リチャードの『しあわせの朝(アーリー・イン・ザ・モーニング』だったような…