コーラスライン[A Chorus Line](1985/米)
ダンスに関しては、内容・迫力とも文句はない(文句などつけられない!)。これが本物であると、素人目にも納得できる。ただ、話そのものが映画になってしまうと、案外つまらない、やはりあくまで舞台のためのお話ということかもしれない。
オーディションの厳しさ、冷酷さ、そしてそれぞれの人間模様が十分に伝わってこない。あまりに舞台の印象が強過ぎるのか(実際の舞台を見ていないので、勝手な思い込みかもしれない)、何も改めて映画化することもなかろうにと思う程舞台的なのだ。まあ映画化してくれなければ、その匂いすら味わうことができない訳で、有難いと思うほかない。
キャシーとザックの過去のエピソードなど、全く余計なものになってしまった。
アンジー・ディキンソンばりの美女発見!(ジャネット・ジョーンズ=ジュディ役)
リチャード・アッテンボロー監督作品...1985年12月記
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庭の木が揺れていた
祖父の死因は肝臓癌だった。
昭和48年、私が大学入学で上京する際に見舞ったのが最後になった。その時には既に黄疸が出ていて、間もなく手術するとのことだったが、もしかすると手遅れだったのかもしれない。
そして、それから2カ月ほどたったある日、母から祖父が亡くなったことを知らされた。 母方ということもあって、同居もしておらず、その時点では病名やその程度など詳しいことは聞かされていなかったし、状況からいって“大事”として認識していなかったのは確かだ。聞けば、亡くなってから1週間が過ぎており、私は葬式にも出なかった。決して私及び家族が母の実家や縁者から疎まれてとことではなく、両親が大学に入ったばかりの息子への“配慮”であったという。そのくらい人によっては、まだまだ東京は遠い地であったのだ。
その頃、どうしたわけか私は毎夜布団に入ると“金縛り”に遭い、七転八倒していた、環境の変化に馴染めていなかったのかもしれない。古いアパートの北側の窓の外になんの木か覚えていないが、無理に目を覚ますと、動かない身体に反して意識だけがかすかに働いて、葉を落としきった枝が不自然に揺れて、その揺れ幅が大きくなって、やがてぐるぐる回り始めた。後に、母ではなくその妹である私とは大して年も違わない叔母に言うと、「とうさんがあんたに会いに行ってたんやろ、うちのところには一度も来てくれないのに」と笑いながら話した。
祖父にとって私は初孫で、存命中は特に可愛がられたように記憶している。外孫ということで、少しだけ父に遠慮しながら、祖父なりのやり方で私に接触しようとしていたふしがある。全て中途半端でどれもしっかりとは伝わらなかったが、祖父は相当に“趣味の人”で囲碁に尺八、書道その他、そのどれかひとつでも“伝承”されていたら、私はずいぶんと“粋人”になっていたことだろう。
亡くなってから祖母が病室のベッドを片付けていると、枕の下から私からの見舞いの手紙が出てきたのだそうだ。早く返事を書いてやらなければ、と毎日のように祖母に話していたという。出来過ぎていて、祖母の作り話のようにも思えるが、いずれにせよ、母に頼まれて軽い気持ちで書いた手紙が、こうして後日談の種になってしまった。
祖父は昭和天皇と同じ年だったというが(詳しいことはわからないし、聞いたこともない)、とにかく16年早く亡くなっている。