月別アーカイブ: 2016年4月

薔薇(ばら)と躑躅(つつじ)

 読めても書けない花の名前の“レジェンド”といえば薔薇(ばら)に尽きるが、躑躅も負けてはいない、むしろこちらの方が“書けない率”は高いかもしれない。「薔」は「くさかんむり」に「十」その下側の左右にそれぞれ「人」を入れ、これを横「一」で留めて、下に「回」。「薇」はやはり「くさかんむり」に微妙の「微」、これで終わりではない、その真ん中の真ん中に横「一」、これで「薔薇」。
 さて「躑躅」、簡単に言うと?どちらも足へんから始めて、まず中国の歴史好きには馴染みがあるだろうけれど、春秋時代にあった「鄭(てい)」という国、これでも構わないと思うのだが、左上の「チョンチョン」が「役」という字の右上の「八」みたいなやつで「躑」。今度は諸葛孔明で有名な三国時代の「蜀(しょく)」で「躅」、合わせて「躑躅」となる。それぞれ細かい箇所で間違っているかもしれないが、これで良しと個人的には思っている。京王線・つつじケ丘の駅名標はひらがなだが、新型車輌の車内モニターに、駅が近付くと、日本語、英語に続いて中国語表示がされて、ここでこの「躑躅」という漢字が出てくる。

桜 SAKURA

 世はまさに“『桜の森の満開の下』(さくらのもりのまんかいのした)”、まるで集団ヒステリーの如き浮かれよう、追われるように誰も彼も焦るばかりで花を愛でるなどという雰囲気は何処にもない。たとえひと気の無い場所にあるものでさえ、決しておとなしくしていない、春爛漫などと能天気なことは言ってはおれない鬼気迫る妖しさが辺りを支配するのみだ。正直言うと花としては、これでもかと圧倒されるばかりであまり好きではない。昔住んでいたアパートの近くに廃屋があって、その庭に何本かの桜が住人が去っても残った。中をうかがえない高いブロック塀が続き、大げさな門構えから門扉が外され、そこから以前は診療所だったかもしれないといった趣の玄関が少しだけ垣間見えた。街灯に照らされて満開までは蒼白くひかり、それを過ぎると一斉に散りつつ妖しさばかりがつのって、やがて一切の生気を失う。きっと、あの死んだような扉の向こう側では、何か想像を絶するようなことが展開していて、刹那を串刺しにしていたにちがいない。そこで深夜の帰り道、近頃亡くなった有名な俳優が大きな犬を連れて散歩しているのにすれちがったことを今でも覚えている。ちなみに、その廃屋の斜向かいに、こちらは新築のお屋敷があって、プロ野球を引退された元有名4番打者がご家族とともに住んでいた。車庫のベンツ越しにリビングルームが見えていて、シャンデリアのもと明るい饗宴の様子を想わせた。
 今年は、咲き始めは早かったが、その後気温の低い日がつづいて見頃の時期が長く保たれ、やがて“満開”に疲れきった今日のこと、春の嵐の“花散らしの雨”で、葉桜への余韻も残さぬままに、きれいさっぱり見る影も無い“後の祭り”となり果てた。