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怪しいことと“杞憂”ということについて

 国内では、怪しい病院のこと、怪しい地下空洞のことにとどまらず、小説よりも奇なる事実が相次いでいたり、広島の奇跡(これは失礼?!)や、北海道の新メイクドラマ、更にはカド番明けに全勝優勝したり、派手さに過ぎて先行きが危ぶまれる新しいプロリーグのスタート、オリンピックでの種目別個人別の興亡・盛衰、パラリンピックへの戸惑いにも似た世の対応ぶりなど、文化的にも突然脚光を浴びたり、逆に冷え込んでしまったりで、まことにとりとめのない、はたまためりはりのききすぎた時が脈絡なく行き過ぎている。あらゆることが劇場的で“犯人捜し”も“人(もの)たたき”も、わかりやすくも如何せん冷静さに欠けて、中身がそれこそ“空洞”なのである。海外でも、大統領選挙や難民問題や水爆に言い及ぶと、どうしていいか、どう考えればいいかかえって混乱するばかりで、ここではあえて?ふれないが、卑近な(これも大変失礼?!)ところでは、例えばメジャーリーグの若手主戦投手の突然の事故死で、記録達成のおめでたい記念式典が吹き飛んでしまった…ような出来事も起きている。
 ついつい何かの前兆かと杞憂と承知の上で天を仰ぐが、何事も今のところは起きていない。この先何かは起きるだろうが、「最悪の事態を覚悟して、最善を尽くし、その先は心配しても疲れるだけ」と心得て、出来る者が出来るだけのことをする、しようと心がけることがやはり正しい姿勢・意識なのだろうと、決して言い訳でも、諦めでもない、程よいバランスの取れた緊張感を目指したいと晩酌の酎ハイを舐めながら、NHK-BSのこの時期には誠に嬉しい?『楽天-オリックス』戦を見たのはつい昨日のことだった。