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霧は流れて肱川(ひじかわ)あらし

 上流の大洲盆地で発生し成長した霧がやがて溢れ出し、山間の急流を一気に流れ下る。冬の朝の風物詩、地元では“あらし”と呼んでいる。海に出る寸前の赤い可動橋のところで瀬戸内の暖かい海面に触れて霧は消える、そしてそんな日は昼近くになると決まって晴れる、それも快晴である。
およそ150年前、この川を一人の若者が目立たぬように下り、河口の長浜から四国を離れ、大志と併せて悲運の姉への想いを懐に、瀬戸内海を渡って行った。港まであとわずかという地点で川は最後の蛇行を見せ、その出口におそらく彼も見たであろう断崖絶壁があった。ここで“あらし”は大きく向きを変えることになる。
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 大洲城の下を通り過ぎ、舟は中村・若宮を右に、阿蔵・五郎を左に見ながら流れて行く。時間は午後二時頃である。川幅は急に狭くなり、流れは早い瀬となって、舟は速度を増して下って行った。ふと、龍馬は、川岸にたたずむ一人の女を見て、ギクッとした。年の頃は三十過ぎ、細い体、そして色の白い、美しい女であった。
 「栄ねえさん……」
 龍馬はつぶやいて、思わず立ち上がっていた。【『坂本龍馬 脱藩の道を探る』村上恒夫著(新人物往来社刊】
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 その場所が何処なのか、詳しいことはわからないが、相応しいといえば突然に現れるこの絶壁の麓の僅かな平地辺りだろうか。加屋という集落に差し掛かる手前に米津というところがあった。
 龍馬の時代から更に遡ることおよそ290年、時は戦国時代、絶壁の頂上に城があった。この米津城を土佐の長宗我部氏が攻めた時の話である。城は奮戦むなしく落城したが、城主の奥方・瑠璃《るり》の方と娘の八重姫・九重姫、更にこれに従う女たちは、一時はそれぞれ得意の長刀、吹き矢、手裏剣などを駆使して包囲網を抜け出したかにみえたものの、やがて一行は白滝にて長宗我部勢に包囲された。とらわれの身となり、辱めをうけることを潔しとせず、奥方は当時二歳のお世継ぎである尊雄丸を抱きかかえ、滝に身を投じた。これに従う侍女たちも次々に身を投じて命を絶ったという。
 現代の(といっても、50年ほどこれも昔のことになるが)子どもたちは、そこには今でもちょっと掘り返せば古銭やら刀などが出てくるなどと話し合ったものだが、誰もそこに近づく者はいなかった、そのくらい見るからに険しい崖だった。
 さて、例年、11月23日の祝日に、瑠璃姫《るりひめ》祭りと称して、稚児行列や、るり姫観音からの花みこしの滝つぼへの投げ入れなどが行われている。地元の小学校の男児1名(なぜ男児が1名なのかわわからない)と女児約20名が「瑠璃姫」(実は中の1名が瑠璃姫で、他は侍女なのかもしれないが、それでは何かと障りがあろうかと全員瑠璃姫ということにしたのかもしれない)に扮し、一同はJR伊予白滝駅前の西龍寺を出発後、住職を先頭に商店街等をねり歩いた後、「瑠璃姫」が身を投げたという言い伝えのある滝の落ち口にたどり着き、るり姫観音での供養行事ののち、故事になぞらえて、「瑠璃姫」らの見守るなか、花みこしは約60メートル下の滝つぼ目掛けて投げ落とされる。ここまでが祭りの“段取り”である。
 勇躍する若者の陰に、時を越えて哀しい女性の物語があった。