「ちこうごういつ」と読む、あまり馴染みがないかもしれない四字熟語である。40年以上も大昔に通っていた高校の理念ともいうべき言葉で、折に触れ目の前に現れた個人的には身近な言葉だったのだが、出演過多で辟易とした…と言っては言い過ぎでも、纏わりつく煩わしさを多少感じていたことを微かに覚えている。
『知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成である。聖人の学問にあっては、修行はただひとつ、知ることと行うことを別個のものとはみなさない【守屋 洋著「中国古典に学ぶ四字熟語」】』「知」の拡充を第一義として、「行」はどちらかというと副次的であるという対立学派を批判するかたちで言及されたものなのだそうだ。つまるところ、目指すところは同じなのに、ゴールまでの過程が違っているだけで、それも日常の暮らしの中で、ある部分では妥協するなり、何とか折り合いをつけられるのではないかと思うのだが、学問を究める人達にとってはそれこそ命をかけて戦うべき大問題なのであろう。「性善説」と「性悪説」についても同じようなことが言えるのではと思うのだが、そんな不真面目な解釈・対応など、決して許されることではないのだろう。
さて、この「知行合一」を謳い上げた中江藤樹という学者が江戸時代の伊予大洲藩に仕え、その屋敷跡に高校ができたというわけで、その同窓としては、避けて通れない、無視するわけにもいかない、いささか面倒くさい“スローガン”であった。ところで、その学者侍の出身が当地ではなく、近江の国であったということで、その校歌の唄い出しが「近江聖のあととめし」であり、更にスクールカラーが藤色という徹底ぶりで、どうでもいいようでいて、それでも今にして思えば納得がいかないという面もあった。その“心配”はないようだが、万が一後輩たちが甲子園に出場するようなことがあって、校歌が流れるとき、大いなる違和感が場内を覆うのではないかとの想いがあるが、もちろん杞人之憂(杞憂・きゆう)である。