ウォー・ゲーム[WAR GAME]【1983/米】
話は地下に隠された核ミサイル発射基地から始まるが、ここではヒューマニズムに左右されて発射ボタンを押せなかったという、物語としては実に古典的なオープニング。これがまぁ伏線といえば伏線なのだが、ほんのきっかけといったところ、大した意味はない。このあたりのことを言いたかったのかもしれないが、あまり語り尽くせなかったところがかえって良かった、ヒューマニズムなどというものは場合によっては興醒めであろう。
場面はかわって、出来の悪い高校生、でも何故かコンピュータには滅法強く、自分のパソコンと学校のコンピュータとを接続させて、成績評価を打ち直してみせたりする。そしてゲーム製造会社のコンピュータとオンラインさせ、その新製品をちゃっかり一足先に愉しもうとしたのだが、どういうわけか軍のコンピュータにつながってしまった。展開としては何とも安直ではあるが、これしかないという感じ、あとは大体想像がつく。話そのものは他愛ないものだが、ラストのクライマックスは一見の価値ありといっていい。司令部内のディスプレイが全面核戦争をシミュレートする。交錯する光の芸術はそれが何かを忘れさせる程美しい。コンピュータがミサイルを発射してしまうというスリルはそれほど感じられず、ハイ・テクノロジー過信の社会に警鐘を打ち鳴らす程のものでもなかったが、かえってそんなものは不必要であり、大袈裟でないところがこの作品を面白くまとめることができた最大の要因であったといえるのかもしれない。役者には見るべきものはなかったが、この作品はあくまでスタッフの勝利といっていいだろう。
記録によると、一九八四年(昭和五十九年)の年明けにこの映画を観たとある。
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年の始めとしては物騒な作品になってしまったが、パソコンとかニューメディアとかいったものが映画のテーマになる時代が本格化したということだろう。SFに終始するのではなく、それが現実に近いかたちで描かれ、しかも無理がない、つまりそういう時代なのである。
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『ニューメディア』など今となっては、ただただ懐かしい言葉だが、インターネット時代の先駆けであり、つまりはそういう時代だった。この作品を観てから、実にほどなく三十五年を経ようとしている。『鑑賞記』は当時のもので、そこでは“近未来とヒューマニズムを語るのはまだ早い”などと言っているが、この間、こうしたテーマがすでに過去のものになってしまったか?いやそうではあるまい、進化どころか、何も変わっていないような、むしろより深刻な状況になっていると、気配ではなく、実感としてある。