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こんな映画を観てきた[15]

   天国から来たチャンピオン[HEAVEN CAN WAIT](1978/米  監督:ウォーレン・ビーティ、バック・ヘンリー)

 新米天使(バック・ヘンリー)のちょっとしたミスが、僕(ジョー=ウォーレン・ビーティ)の夢を人生を危うく駄目にしかけた。 でもそのお蔭で僕は人間の本当の優しさに触れ、もっと素晴らしい人生を見つけることができた。そしてやがてその夢さえ実現することになるのだ。僕の頭の中には “スーパーボール”しかなかった。その日の為にだけ僕は走り、投げ、日々を激しい闘いのうちに過ごしていた。
 ある日、自転車に乗っていて事故に遭った。気付いたら僕は天国行きの飛行機(これがコンコルド機)に乗るべく中継駅のエアポートへの道を、 何だか無愛想で奇妙な男と歩いていた。聞けば天使だと言う。冗談じゃない、僕が死んだなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。夢にまで見たスーパーボールが目の前に迫っているというのに。 僕は天下のロサンゼルス・ラムスのクォーターバックなんだよ。それみろ、やっぱり間違いじゃないか、どうしてくれるんだよ、死んでもいないのに焼かれて身体がないなんて、 こんな重大なことを新米天使一人にやらせるなんて全くひどいよ。
 天使長(ジェームズ・メイスン)は不貞の女房とその情夫に殺されかかっている大金持ちに乗り移れと言う。まったくもって無責任で無茶苦茶な話だが、 偶然そこにちょっといい女が来たので、僕は暫くの間という条件で承諾した。かなり気は強いが、ベティ(ジュリー・クリスティ)は付き合ってみると人一倍優しいし、 かわいいところもある。それにだいいち見れば見るほどいい女。僕は彼女に夢中になってしまい、また彼女は人間の優しさを教えてくれた。乗り移っただけのこの身ではあるが、 僕はもう彼女と離れられなくなってしまった。
 でも、僕はやっぱりスーパーボールに出場したい。乗り移った男の財産をちょっと拝借してラムスごと買い取り、コーチのマックス(ジャック・ウォーデン) を招んでトレーニングしたまでは良かったが、天使長に呼ばれてこの身体はもう使用期限が切れたという。女房(ダイアン・キャノン)と秘書のトニー(チャールズ・グローディン) に殺されるんだそうだ。スーパーボールの方は、ちょうどラムスの今のクォーターバックが間もなく死に、その身体を使えるというので出場できる見通しがついたけれど、 ベティにはもう二度と逢えなくなってしまう(この間の記憶が消される)。
 「ベティ、この眼を覚えておいて欲しい」
 僕は手にしたボールをレシーバーに向けて思いきり投げた。夢にまで見たスーパーボールの晴れ舞台、勝った。
 ヒーローインタビューの最中に天使長が現れて「君は一生その身体を使いなさい。ジョーとしての記憶を消して、たった今から君はトム・ジャレットだ」
 「さよならベティ」
 着替えている時マックスがやって来て「おめでとう、ジョー」だなんて、おかしなことを言うやつだ。優勝祝賀パーティの会場に向かう途中、 僕はちょっといい女と鉢合わせした。訳もわからず僕の胸は熱くなり、彼女とそのまますれ違うことができなくなってしまった。初対面なのに何処かで会ったことがあるような気がする。 彼女もじっと僕の眼を見詰めて立ち尽くしている。そして、「あなた、もしかしてクォーターバックでは?」
 何だかパーティなんてどうでもよくなった。ベティと一緒に居たい、このままずっと…。「お茶でもご一緒に・・・」
     ◇
 ウォーレン・ビーティ、本当にいい男だと思う。私生活ではかなり派手で、私の最も敬愛する彼の実姉、シャーリー・マクレーンとは仲が悪いということだが、 ただの軽薄な色男にこんなにも人間味溢れた映画を作れるはずがない。『おかしなレディ・キラー』は観ていないが、『シャンプー』に続いて、彼が彼らしさを最高に表現し、 乗りに乗って作り上げた作品といえる。
 ジュリー・クリスティもまた、素晴らしい女性だと思う。その洗練された美しさゆえに、大時代的で土の香りを必要とした『ドクトル・ジバゴ』のラーラ役を私は認めないが、 ウォーレン・ビーティと組んだ『ギャンブラー』や『シャンプー』では、その魅力を如何なく発揮している。女の優しさ、狡さを自然に、そして見事に表現できる女優の一人だと思う。 余談になるが、例えばシャーリーの優しさはどことなくわざとらしさを感じさせる。まぁそれはそれで良いのだけれど。
 ところでこの作品、“私の愛すべき映画リスト”に文句なく入るのだが、なんといってもウォーレン自身がこの作品で言っておきたかったことを構えることなく、 実に自然に表現できているのが素晴らしい。人は、愚かなほどに優しくて、またその優しさにどうしようもなく魅かれてしまう。観終わった後の感激が観た者の疲れた心を和ませ、 私はこの上ない幸福感のうちに家路に就く。お涙頂戴では困るが、そんな思い遣りのあるハッピーな作品を私は愛する。ジョーを見る天使長の眼、ベティを見るジョーの眼、 そしてジョーを見詰めるベティの眼差し、全ての想いを表現し、全てを許す優しい眼、人間とはなんて素晴らしいんだろう。
 『幽霊紐育を歩く』(1941年制作、1946年日本公開、アレクサンダー・ホール監督)といって、ロバート・モンゴメリー主演作品のリメイクであり、舞台はボクシングであったそうな。当初は、やはり、ボクシングを舞台にモハメド・アリ主演での制作を予定していたが、アリ側に断られた(この辺はウィキペディアからの受け売り)ため舞台をアメリカンフットボールに変更し、ビーティが主演も兼ねて制作したという。アリ主演というのは論外だが、もしこれがボクシングを舞台としていたら、さぞかし脂ぎった、しかも暗いイメージのものになっていたような気がする。それでは、ウォーレン・ビーティとしても自分で手掛けるようなことはなかったかもしれない。

「たそがれの銀座」

 『ラヴユー東京』、『たそがれの銀座』、『雨の銀座』、どれもロス・プリモスのヒット曲である。小学校から中学校に上がったころのはずだ、子供のくせに(?)こんなうたばかり聴いて、歌って、東京に憧れてしまった。このころの想いが沁みついて、もしかするとその後上京を目指し、実行に及ぶことにつながった…、いろいろあったが、実際のところ、家を出る動機なんてこんなところだったのかもしれない。それはともかくご近所が集ってバス旅行(日帰り)というものが当時の田舎では恒例行事で、移動中車内で子供がこういう歌を歌うと大人たちが喜んだ(たぶん)ものだから、調子に乗って歌ったものだろう、これがまた嫌味にうまかったりしたら、かえって雰囲気が悪くもなったろうが、こまっしゃくれてもおらず、ただ“知っている”と評価され、そしてやんやの喝采が嬉しかったに違いない。中学1年の担任が英語の先生で、詳細は霧の中だが、黒板でラビュー東京と書いたものをラヴユーであると訂正されたことをなんとなく覚えている。今にして思えば、さらっとラビューといった方が通じるのではないかとも思うが、厳しくも優しい先生で、英語教師のくせに剣道部の部長でこちらの稽古もきつかった。
 さて、銀座、上京後も足繁く訪れるようなことはなく(もっぱら新宿で)、かえって遠い存在になったような、そんな気がする。“銀ブラ”とは何か、一説によると「銀座のカフェ・パウリスタでブラック(もしくは、ブラジル?)コーヒーを飲むこと」なのだそうだが、もちろんブラブラすることだと思っていた。それはともかく、たぶんムードコーラスというジャンルがあるとすれば、このグループのおかげだろう。どろどろとしていない高級感は唄にも生きていて、貧しい若僧の身としては、名実ともに歌だけの存在となってしまった。
  『たそがれの銀座』
     作詞:古木 花江
     作曲:中川 博之
     歌:黒澤明とロス・プリモス
   ふたりだけのところを 誰かに見られ
   噂の花が咲く銀座
   一丁目の柳がため息ついて
   二丁目の柳がささやいた
   あなたの愛が目を覚ます
   銀座銀座銀座 銀座銀座銀座
   たそがれの銀座

 詞にはほとんど意味はなく、ただただ森聖二さんの甘い声に引っ張られての“名曲”なのであった、とあくまでも個人的見解。