ロス・プリモスといえば、『ラヴユー東京』がスタートだが、このあとに来るのが、『雨の銀座』、『たそがれの銀座』で全盛期を迎えることとなる。この後に“銀座三部作”の締めくくりとして、『恋の銀座』というものがあったそうな…そもそもヒットしなかったか、記憶の片隅にも残っていなかったが、探し当てて聴いてみると、これがただただ甘ったるいだけで、森さんの唄でなかったらとても聴いていられない、恥ずかしくて…
『雨の』では、街角で「嘘と知りつつ待ちました」、次なる『たそがれ』では、ご丁寧に一丁目から八丁目まで遊びまわって、『恋の』で極めて限定的な空間での、しかもベッタベタの恋模様。詞の内容に深みなど全くないが、雰囲気だけは充分なのである。
銀座はもちろん敷居が高い、上京して半世紀になろうかという“歴史”を振り返っても、ここで飲んだりした経験は指折り数えられるくらいの回数、多寡が知れている。手持ちを気にして、心細くもいじましく過ごした新宿などとは雲泥の差なのだろう。人の金(仕事上のやむなしのつきあい)、もしくはそういったことをはるかに超越した“キャッシュレス”の街と言えなくもない。森進一の『一人酒場で』(これは『新宿みなと町』『雨の桟橋』とともに彼の隠れた?名曲だと思うのだが…)では「夜の銀座での飲む酒はなぜか身にしむ胸にしむ」とある。が、とてもそんな場所ではない。
月別アーカイブ: 2020年9月
吉田義男と桑田武、そして佐田の山と若秩父 2020
幼馴染の“よしくん”はよほどおとなしい子供だった。体調をくずしていることは聞いていたが、亡くなったとの知らせは、やはり唐突で残念でならない。昭和も30年代、先の東京オリンピックの少し前のことだったか、そんな二人が、ほぼ同時に野球のユニフォームを買ってもらったことを覚えている。それぞれが親に縫い付けてもらった背番号は、私が[23]で彼は[8]であった。[23]は阪神タイガースの[吉田義男]、[8]は大洋ホエールズの[桑田武]だったのだが、両人とも当時の“地方”ではテレビ中継もほぼ『キョジン対それ以外』であって、相当の“へそまがり”だったのかもしれない。
一方、お相撲では、私が[佐田の山]で彼は[若秩父]、これもまた両人とも大鵬ファンでないところがなんとも味わい深い。彼は小学校を卒業と同時に県庁所在地へ引っ越していった。それ以来会っていない。その“よしくん”が、更に遠く離れて静かに逝ってしまったことを、老母との電話のやり取りで知らされた。親同士は年賀状程度ではあったろうが、親交は続いていたらしい。
さて、我が阪神タイガースはその後1985年に、管理野球の継承者といわれた『広岡・西武』を打ち負かして日本一になり、佐田の山は引退後出羽の海親方から、やがて理事長になった。一方、大洋ホエールズももう少し時間がかかったものの、またチーム名こそ変わったが同じく日本一になった。若秩父は常盤山親方として向正面の解説として長くお茶の間にはなじみ深かった…などという話をちょっと“得意げに”話してみたかった。おとなしい“よしくん”はにこにこしながら、黙って聞いてくれたに違いない。