月別アーカイブ: 2020年11月

こんな映画を観てきた[17]

ダーティ・ハリー3[The Enforcer]
   (1976/米 監督:ジェームズ・ファーゴ)

 “絶対ヒーロー”に飽きて、世は“アンチヒーロー”が主役を張る時代であった(後に時代は繰り返すのだが…)。それまで正義が“単純悪”を成敗し、見方によっては闇の弱者をただ燻り出して晒し者にする情け容赦の無いストーリーが展開し、人々は喝采した。想えば構図はただただ明快、観る側としては、ジョン・ウェインがスクリーンに登場しさえすれば、拍手喝采、それで良かったのだ。
 伝統的な西部劇にしろ、時代が進むにつれてかつてのような見方は許されないものとなってきた。そこで登場するのが“アンチヒーロー”、その代表がこのダーティー・ハリーなのである。役者としての行き場を失くしたクリント・イーストウッドが輝いたのはマカロニウエスタンだが、原住民と馬達が斃れるだけの見るもおぞましい?旧来の西部劇と異なり、こちらは主役が生きるために所詮倒さねばならなかった善悪を超えた“敵役”が相手(ある意味、一方の主役として格が上がった?)、高邁な意志も無く、ただ生きるために銃を使う(場合によっては知恵と工夫で何でも使う)、こちらは登場するだけで拍手喝采と言うわけにはいかない、構図としてはやはり単純といえなくも無いが、格好よくてもそうでなくても何か言わないと、しないと観る側としては納得がいかないのだ。とにかく政治、経済、社会(人種問題等など)的な要素がたとえあったとしても、そんなものは意識しないでエンタテインメントが常に先行していて、その集大成が『ダーティ・ハリー』であったような・・・そんな気がする。
 このシリーズは『5』まで続くが、第1作は正直言ってあまり後味が良くない(敵役が酷すぎた…要するに悪すぎて爽快感が無かった)、警官が“正義”を“押し売り”するという『2』あたりがシリーズのメインと言えるのかもしれない。余談だが、『007シリーズ』でもメーンは『2』の『ロシアより愛をこめて』であることは万人が?認めるところだろう。『ゴッドファーザー』も同様に『2』が作品として当時格上の評価を受けていたような記憶がある。さて、個人的には『ダーティ・ハリー3』を推したい。シリーズもすっかりお馴染みとなり、ある意味安心して観られることとなり、相棒の女性刑事(タイン・デイリー…後に女刑事としてテレビドラマで人気を博す)も、それなりの存在感を示し、バズーカ砲による最終的反撃、そしてキャラハン刑事が殉死した相棒の屍を抱いてフェードアウトのラストなど秀逸であった…と思う。

訃報 ショーン・コネリー

 「女王陛下の007」(69年)で主人公ジェームズ・ボンドの相手役「ボンドガール」を務め、ボンドの最初の結婚相手になったダイアナ・リグが82歳で9月に亡くなったという報せが届いてから程なく、今度は主役たる初代ジェームズ・ボンド役を演じた英俳優ショーン・コネリーが亡くなった。90歳だった。もっとも、この二人実際の共演はなく、接点は無い(あったかもしれない…)。「女王陛下・・・」でのボンドはジョージ・レーゼンビーという誠に気の毒としか言いようのない俳優が演じた。フェミニスト運動の盛り上がりのもと、女性蔑視の象徴として槍玉にあがった『007』、その影響もあってか、われらがボンド氏は事もあろうに、結婚させされてしまう(もっとも結婚式当日にこの花嫁は殺害されるのだが…)。作品的にも敵役のテリー・サバラスの存在感のほかは観るべきところのないものだった(と思っている)。
 さて、ショーン・コネリー、『007』のイメージからなかなか脱却できず、随分と苦労したようだが、それでも辛抱の甲斐あって?「薔薇(ばら)の名前」で“渋い”評価を受け、ついに1987年の「アンタッチャブル」でアカデミー助演男優賞を受賞した。それでも、歴代ボンドの人気投票ではしばしば1位になっているという(個人的にはロジャー・ムーアも“品格”からいくと悪くないと思っている。ティモシー・ダルトンも決して悪くはないが、他は酷過ぎる)。ベストは「ロシアより愛をこめて」ということになろうが、第1作の「ドクター・ノウ」「ダイヤモンドは永遠に」も悪くない、「ゴールドフィンガー」、「サンダーボール」など、何度観ても面白いが、「二度死ぬ」、これは申し訳ないが二度と観たくないし、「ネバーセイ・ネバーアゲイン」はオマケで出来たような作品で、シリーズにさえ入れられていない(らしい)。滞在先の地中海はバハマで亡くなったというが、終の棲家は幸せなものであったのか、そうであって欲しいと願い祈るばかりだ。

ご当地ソングⅡ-4『京都篇』

   別れないでと抱きしめて
   愛してくれたあの人は
   白い夜霧に消えたまま
   淋しく今日も求めてうたう
   甘い京都の夜はふけゆく
    …
 とりあえず、京都といえばこの『京都の夜』(愛田健二)である。次いで渚ゆうこの京都シリーズ『京都の恋』、『京都慕情』ということになろうか。『京都から博多まで』(藤圭子)は名曲だと思うが、『なのにあなたは京都に行くの』(チェリッシュ)とともにいずれも主人公は京都にはいなくて、故にご当地ソングとはいえない。藤圭子はその後『私は京都に帰ります』で戻って来るが、こちらは全く印象にない。『女ひとり』、『祇園小唄』なんてものもあるが、ご当地ソングの範疇ではないような気がする(気がするだけだ)。『加茂の流れに』(かぐや姫)については、初代?かぐや姫のものでフォークソング、これもご当地ソングではないようだ。
『京都の夜』はこれっきり?となったが、おかげで“伝説”となった(ただし、途中の台詞は気色悪いばかりで聞いていられない)。渚ゆうこはその後『長崎慕情』から、ついには『さいはて慕情』に至り、更には『雨のブルース』、『風のブルース』と天まで上った…迷走のうちに空に消えたわけである。『雨の…』は名曲で、個人的には大好きな曲なのだが…
 長岡京市というところに父方の伯母が嫁いでいて、一度だけ訪ねたことがある。裏手に竹林を控えて、それはもう“京都”という雰囲気だった…といきたいところだが、高いビルこそないが、静かな住宅地だったと随分以前のことであやふやだが覚えている。ご当地ソングではそのほんの一角を切り取って歌ってこそのもので、そこらじゅう“京都”であるはずもなく、その必要もないのである。