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“昭和”が遠くなりにけり

 筒美京平さん、中村泰士さん、なかにし礼さんと訃報が続いた。それぞれの業績を並べることはしないけれど、まさに「昭和が遠くなりにけり」の印象を持った。三〇年の平成を挟めば当然、やむをえないことではあろうが、響く歌、沁みる歌はやはり世代的に昭和にありということになり、それらが遠くなるのはやはり切ない限りである。
 最近の唄はよくわからない…」などと言うつもりはない、いいものはいいし、そうでないものは聴いても一向に沁みて来ないというだけのことだ。ただ、昭和を少々引き摺っていた平成の始め頃までの唄に久々に、或いは今になって出会い、やけに沁みてしまうことが時に在るという今日この頃ではある。やはり音符にしっかりと歌詞が乗っていてこそ沁みる唄、要するに年のせいではあるのだが、それに抵抗するのを止しにすると、更によく沁みて仕方がないのだ。
 さて、“好きな唄フォルダ”に納められたリストを改めてみてみると、『懺悔の値打ちもない(幻の4番付き)』(北原ミレイ)、『ふりむかないで』(ハニーナイツ)、『潮風の吹く町』(森田由美恵)、『水中花』(井上忠夫)、『旅愁』(西崎みどり)、『八月の濡れた砂』(石川セリ)、『池上線』(西島三重子)、『プカプカ』(西岡恭蔵)、『オールド・タイム・ジャズ』(高橋真梨子)、『踊り子』(村下孝蔵)、『さらばシベリア鉄道』(太田裕美)、『さよならをするために』(ビリー。バンバン)、『東京』(マイペース)、『心が痛い』(りりぃ)と続く。“沁みる唄フォルダ”には藤圭子や森進一、青江三奈にロス・プリモス、そしてこの頃やけに沁みる村上幸子の演歌が並んでいる。何の脈絡もないが、とにかくこんな唄を聴いてきた、そして時にこっそり、いや恥ずかしげもなくマイク片手に唄ってきた(もっとも半世紀近くも昔の話だが…)。

断じて同意などしない!

 どうやら“上級国民”というのは、少々下品で行儀の悪い人達のことをいうようだ。『遺憾』というのは、“あってはならないことが起こった”と、事実を追っているにすぎず、この言葉に“謝罪”の意味は込められていないそうだ。つまり、この言葉を使う人に“悪い事をして、或いは言ってごめんなさい”などという意識は微塵もないということらしい。一見謝っているようで、それは受け取る側の勝手、自分に非はないということを主張しているだけのことのようだ。騙されてはいけない、あの人たちの目からは“正直さ”は感じ取れない。見え透いた嘘が、検証されないことをいいことに、堂々とまかり通る(そんな時代は既に大昔のことだが…)とでも思っているのだろうか、見ているだけでも虫唾が走る、品のないシナリオである。それでも大半の人はおとなしくその“お願い”という指示に従うのが常だ。
 大半は自粛もし、咎められるような行動はなるべくとらないが、お願いする方がする方なので、偶に(結構大勢)従わないで、または従うふりをして、まず言い訳をする人がいることも現実で、所詮他人事とする態度に対しても、強く責められないことではある。それでもなお自らの行動においては、なるべく“上品”でありたいが、断じて“お上の仰せ”に従っての、それに同意し、納得しての“行い”ではない。