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流れのブルース

   作詞…安富 庚午
    作曲…城 美好
    歌唱…森 進一

    川の流れの きまぐれに
    逃げて行きます 幸せも
    こぼす涙が あと追うばかり
    流れ流れの 釧路 札幌雪の町
 
    旅のお方と 知りながら
    故郷(くに)のなまりの なつかしさ
    むせぶ瀬音に かくれてむせぶ
    流れ流れの みぞれ 金沢 主計(かずえ)町

    女命の かがり火は
    燃えてこぼれて ただ一度
    恋のやみ夜に 唇 かんで
    流れ流れの 岐阜は 柳ヶ瀬 別れ町

    酔いをさましに 出た頬を
    そっといとしむ 川柳
    こんな情けが ひとにもあれば
    流れ流れの 京都 木屋町 花の町

    好きでせつない 人の名は
    書いて流して 今夜から
    酒場稼業の 浮草ぐらし
    流れ流れの 博多中州は 浮気町

 “全国縦断型”のご当地ソングである。「金沢・主計町」が目新しい他はなじみ深い場所ばかりではあるが、曲調も重くなく、覚えやすく唄いやすい…かも。森進一の物の中でもビッグヒットとはならなかった唄に、時を越えて“沁みる”唄を再発見している(年のせいだとは思う)。『人を恋うる歌』、『女心』、『雨の桟橋』、『東京みなと』、『放浪船(さすらいぶね)』等など、令和の時代に、深夜、ユーチューブでイヤホン越しにしんみり聴き入っている姿は我ながら珍妙で、いささか納まりが悪いところだが、それもまた愉しからずや…である。

我慢の限界と無法地帯

 「酔いをさましに出た頬を そっといとしむ川柳(かわやなぎ) こんな情けが人にもあれば ・・・」
 ある古い演歌(…なんだろうなあ)の一節である。人がもう少し(少しでよいと思う…)人(自分と他人、及び周囲の全て)に対して優しくあれば、命よりも目先の欲求を満たすべく安易な行動をとったり、決して自分発信ではない“言い訳”を並べて自分だけを正当化しようとしたり、また、誹謗、中傷、押し付け、蔑視、などなど、決して愉快ではない光景や言葉の大半は失せるに違いない。
 絵に描いたような“善人”である必要はない(それもちょっと気味が悪い)、それが人としての“余裕”という程度のもので構わないだろう、そのささやな優しさの交わりが、きっと諸々の問題のかなりの数を解決することだろう(ゼロになることを願うが、それは無理というものだろうし、その必要もあるまい)。我慢をしない誰か(それまで我慢してきたかというとそうでもないだろう…)の真似をして、自分だけが悪いのではないとばかりに開き直る姿は浅ましくもみっともない…と言わざるを得ない。それは本当に我慢をしている多数(そうであって欲しい)の人が持つ“思い”に失礼極まりないことであって、人として持つべき“情け”のかけらも見出せない。