月別アーカイブ: 2021年6月

こんな映画を観てきた[19]

合併結婚[Yours, Mine and Ours]
(1968/米 監督:メルビル・シェイブルソン)

 「ルーシー・ショー」でおなじみのルシル・ボールと、「怒りの葡萄」「ミスタア・ロバーツ」のヘンリー・フォンダという異色の取り合わせといっていいのだろう、テレビ放映の微かな記憶があるだけで、実話に基づいたホームドラマ…だというが、そんなことはどうでもよろしい、「ささやかな規則があって、お互い文句を言わないこと、それが、困難を乗り越えられる手立てだ」という台詞だけが正確ではない(どちらが言ったのかも覚えていない)が、心に残っている。そうしたうえで、最悪の事態に備えて、基本的には楽観的に生きるということか、解らないでもないが…
資料によると、海軍に勤めていた夫が死んだので、ヘレン・ノース(ルシル・ボール)は、夫の思い出のない所で新しい生活を始めようと思い、残された8人の子供とともにサンリアンドロに向かった。一方、原子力空母エンタープライズの乗組員のビアズレイ(ヘンリー・フォンダ)は、妻に先立たれ、これまた10人の子供の面倒を見なければならなくなり、空母を下り陸上勤務に変わった。この二人というか二組が結婚、これがまさに“合併”ということなのだろう、当然様々な問題が起こるわけで(だから映画になる…)、結論からいうと、いかにもアメリカ映画的にハッピーエンド、つまりは困難を乗り越えていった…というもの、“ささやかな規則”と“懐深い許し(寛容とでもいっておこうか…)”、これさえあればなんでも上手くいく…はずだという作品であった。

こんな映画を観てきた[18]

黒いチューリップ
[1963年/フ仏・伊・西]
   原題:La Tulipe Noire

 資料によると、「デューマの原作をアンリ・ジャンソン、ポール・アンドレオータ、クリスチャン・ジャックが脚色、クリスチャン・ジャックが演出したアクションドラマ」とある。ストーリーは、フランス革命勃発前、ジュリアン、ギョーム(アラン・ドロン)の兄弟は外観は瓜二つだったが、性格は正反対で、兄のジュリアンはそのころ身の危険を感じて亡命を企る多くの貴族を襲い、人呼んで「黒いチューリップ」と恐れられていた…と続くが、ほとんど記憶になく、ドロンの黒装束姿だけが片隅に残っているのみだ。
12年後(1975)、これが土台となってか、今度は息子の喜ぶ顔が見たいと?ドロン自身が『アラン・ドロンのゾロ』を製作・公開に及んだ。当時どうしたわけか、彼の作品をほぼ欠かさず観ていた時期があって(『ボルサリーノ2』『ル・ガング』『暗黒街の二人』『ブーメランのように』『ル・ジタン』『フリックストーリー』等など)、それぞれそれなりに面白かったが、この『黒いチューリップ』がまたテレビで放映されたりすると、元々テレビ放映しか知らない(1964年公開なら仕方ないだろう…)が、懐かしくも思い出すことになるだろうし、とにかくどこかでやってくれないものかと思うのである。

訃報 若山弦蔵さん

 「007」でショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンドや、「スパイ大作戦」のリーダーのジム・フェルプス、そして「鬼警部アイアンサイド」のアイアンサイド警部(レイモンド・バー)の吹き替えを担当、低音域ながらよく通る渋い声で人気を得た若山弦蔵さんが先ごろ亡くなったという。ちなみに、「アイアンサイド」で途中までの“紅一点”イブの声を吹き替えたのが、今や参議院議長山東昭子氏であります。
 若山弦蔵のあとをついで「007」のボンド役を担当したのが広川太一郎さん、イメージが軽くなった分(インテリジェンスの部分では決してひけをとらない…と思っている)ロジャー・ムーアの声はこの人で良かった…と思う。
 ということで、声優の“大御所”を挙げてみた。米仏伊の二枚目の声といえば、野沢那智さん、ロバート・レッドフォードにジュリアーノ・ジェンマ、そしてなんといってもアラン・ドロン、一時代のスーパースターを総なめである。渋さはないが、嫌味なくらいの“二枚目声”をやらせて、この人の右に出る人はいない…と思っている。
 さて愛川欽也さん、この人は、ジャック・レモンの一点、大好きな(個人的に)この役者さんを一層引き立てた功績は大きい…と思う。お相手といえばシャーリー・マクレーン、その吹き替えは小原乃梨子さん。
 刑事コジャックといえば、森山周一郎さん、スーパーマンとマグマ大使のゴアと田辺製薬(生?CM)といえば大平透さん、オードリー・ヘプバーンは池田昌子、とくればグレゴリー・ペック、こちらはなんといっても「ジェットストリーム」で毎夜沁みるほどにFM東京に聴き入った城達さん也、スチーブ・マックイーンいえば宮部昭夫さんだが、この人は俳優のイメージが強く、サリーちゃんのパパとともに、内海賢二さんも担当した。、チャールトン・ヘストンと銭形警部は納屋悟朗さん、この人の重厚な声には“大活劇”の主役こそが相応しい…と思う。そして、マリリン・モンローは向井真理子さん。
 当然、実際のご本人の声とは全くの別物なのだろうが(アラン・ドロンなどは相当に低音?!)、吹き替えで、場合によっては本人の望まぬイメージが地球の裏側(映画の当時の本場から見て)で思いもかけず定着してしまっていたことをどう思っておられたか、翻訳とはまたちょっと違うと思っているのだが、演者のことはともかく、あくまでも(個人的に)モーゼ(十戒)の声は納谷さんであり、初期のボンドやアイアンサイドの声は若山さんなのである。

もう止しにしましょう

 「もう止しにしましょう」というと、「そんな単純なことではないんですよ」と返ってくるのだろう。そんなことは端からわかっている、じゃあこれまで随分と時間もあったろうに、後手後手にしかも的外れでその場しのぎの対応を繰り返してきたつけがまわってきて、やがて期限が迫るに及んで、とどのつまり二進も三進もいかないことになってしまった…ということだろう。
 経済、政治、文化の上に“社会”というものがあるとすれば、全てが不都合であれば論外だが、それらのうちのどれか、或いはどれかとどれかが問題ありで足を引っ張っているというのであれば、そもそも何を、どのような状況を良しとして評価するのか、バランスを考えれば、おのずと答えが明確になるか、もしくは方向性は定まるはずである。要は、バランスのとれた、しかもそれぞれが満点に近い対応こそがベストであることは当然だが、二番手、三番手を予め想定準備しておいて、よりベターを目指すことが常道なのだと思う。
 落としどころは難しいかもしれないが、ここはやはり、「もう止しにしましょう」に至るしかないのだろう・・・、それこそが常識的なライン、大半(過半数ではまだ弱い)の腑に落ちる結論なのだろうし、民主主義というものだ。
 ことは『東京オリンピック』に限った事ではない。