日別アーカイブ: 2022年2月10日

こんな映画を観てきた[24] いちご白書

   いちご白書[The Strawberry Statement](1970/米 監督:スチュアート・ハグマン)

 半世紀も昔のことである。上京した時には、すでの学生運動は〝末期〟だったが、それでもまれにキャンパス内を様々な色のヘルメットをかぶった集団が闊歩していた。しかしあくまでも緩い雰囲気だったことを微かに記憶している。事の発端は、児童公園閉鎖に反対することだったが、やがて大事になって、最後の『サークルゲーム』、そしてサイモン(ブルース・デーヴィスンが警察(権力)に向かって跳びかかったところでストップモーション、あの大ヒット曲が流れてエンディングである。
 リンダ(キム・ダービー)の可憐さに参ってしまい、彼女は前作において、なんとジョン・ウェインと共演(ラスト・シューティスト)したりするのだが、こんな同級生がいたら、主義・信条もあっさり変えてしまっても悔いはない…なんてことに、きっとなる!
キャンパスを占拠した学生が食料調達と称して近所のスーパーに行く、代金を支払わずに…しかし、店主は小声で「これも持って行け」なんてそれを許すのだが、損失分は保険でまかなえるとあって、新米運動家(サイモン)も(観るもの者も)納得するのである。当時は「アメリカだなあ」と感心頻り、となったことを記憶している。
 日本では、映画よりも「いちご白書をもう一度」などという歌の方が大いにヒットしたが、「就職が決まって、髪を切って来たとき・・・」などと言われてしまっては、興覚め、浅い捉え方だと思ったものだ。

こんな唄に出くわした[2] 晩夏

晩夏

 梶芽衣子である!『さそり』よりも、個人的には『鬼平犯科帳』のおまさ役につきる。昭和の時代の『怨み節』も悪くはないが、こんな唄に出くわした。2010年発売というから、比較的最近のものらしいが、ヒットした形跡は少なくとも記憶にない。歌い手によって、ジャンルが変わってしまうのかもしれないが、決してどこにも属さない、まさに〝梶芽衣子〟の世界に引き込まれてしまう。

     作詞:吉田旺
     作曲:杉本眞人
     唄 :梶芽衣子

  夏の日の幻 指先で弾けば
  さらさらと砂の上に
  くずれ落ちて 日暮れ
  紅の渚に 秋風のくちぶえ
  ヒューヒューと体の中
  逆さに撫でる
  風よ 起こさないで
  眠りかけた 愛の記憶を
  風よ うたわないで
  さむい名残り歌は
  アデューアデュー……夏よ

  海猫の悲鳴に 褪せてゆく太陽
  ゆらゆらと波に消えて
  海は夜の とばり
  月影に目を伏せ うずくまる心に15
  ひたひたと寄せてかえす
  海はやさしい
  波よ どこか遠く
  抱いて行って 流れのままに
  波よ 騒がないで
  夜が終るまでは
  アデューアデュー……夏よ

  波よ どこか遠く
  抱いて行って 流れのままに
  波よ 騒がないで
  夜が終るまでは
  アデューアデュー……夏よ

 梶芽衣子には彼女〝仕様〟の『夢は夜ひらく』があって、その歌詞はこうだ…

     泣くため生まれて きたような
     こんな浮世に 未練など
     これっぽっちも ないくせに
     夢は夜ひらく

 これはもう、この人にしか歌えないものだ。歌詞の意味などどうでもよろしい、甘さなどかけらもなく、諦めでもない、もっと暗い、もっと深いエネルギーを感じる。

スノードロップ(待雪草…マツユキソウ)

 なんともロマンチックというか、天使が触れた雪の化身という伝説が由来の洒落た名前だが、まだ雪が解けやらぬ頃に白い花を咲かせる、春を告げる花『待雪草』となると味わい深くも趣がある…ということになる。同じ花だが、見た目と心象としての、感じ取り方の違いであろう。白い下向きの花を一輪咲かせる様子はその名の通り可憐である。
 花言葉は、「希望」「慰め」「恋の最初のまなざし」ということらしが、球根には強い毒性を持つ物質が含まれていて、これを贈ると「あなたの死を望みます」と受け取られることになるかもしれないとのことで、とにかくやめておこう。大きな、派手な花は受ける印象も強いが、飽きもする。小さくて可憐な花は、その点長く観ていて飽きることがない、穏やかに、静かに元気づけてくれる。

やたらと謝らないで!

 誰が責めるというのか、謝罪さえも言い訳に聞こえる。〝俄か応援団は、心無い非難の発信者に急変する〟そういうことなのだろうが、そんな者として扱われたこと自体が不愉快であって、日の丸を背負っているからといって、それほど大きな責任を負わせているわけでは決してない。確かに半世紀前にはそんな風潮もあったかもしれない。何かを高揚させるために利用されたのだろう、悲劇もあった。もし今だに一方的に責め立てるようなことがあるとすれば、それは単なる憂さ晴らしであって、相手にするようなことではない。むしろ、〝有言実行〟とか言って、自身を奮い立たせるためか、事前に目指すところの〝結果〝を提示してしまうことが、正しいことなのか、不遜にも思え、見せられる者としてはどう反応してよろしいのかわからない。どんな結果であろうと、本人としては受け入れ、周囲はとやかく言わない…そんな謙虚さと行儀の良さが望まれる、いやそれが普通のことだと思うのだが…
 もう昔のことということになるのだろうが、あるマラソン選手がレース中に靴が脱げて、結局〝大いなる結果〟に届かなかった。レース後のインタビューに彼はこう答えた「こけちゃいました」この結果を誰が責める…さわやかさ、潔さだけが印象として残った。