我慢の限界と無法地帯

 「酔いをさましに出た頬を そっといとしむ川柳(かわやなぎ) こんな情けが人にもあれば ・・・」
 ある古い演歌(…なんだろうなあ)の一節である。人がもう少し(少しでよいと思う…)人(自分と他人、及び周囲の全て)に対して優しくあれば、命よりも目先の欲求を満たすべく安易な行動をとったり、決して自分発信ではない“言い訳”を並べて自分だけを正当化しようとしたり、また、誹謗、中傷、押し付け、蔑視、などなど、決して愉快ではない光景や言葉の大半は失せるに違いない。
 絵に描いたような“善人”である必要はない(それもちょっと気味が悪い)、それが人としての“余裕”という程度のもので構わないだろう、そのささやな優しさの交わりが、きっと諸々の問題のかなりの数を解決することだろう(ゼロになることを願うが、それは無理というものだろうし、その必要もあるまい)。我慢をしない誰か(それまで我慢してきたかというとそうでもないだろう…)の真似をして、自分だけが悪いのではないとばかりに開き直る姿は浅ましくもみっともない…と言わざるを得ない。それは本当に我慢をしている多数(そうであって欲しい)の人が持つ“思い”に失礼極まりないことであって、人として持つべき“情け”のかけらも見出せない。