そして、瓦礫が残った(遺った)…

 “起死回生”を目論んで強行したはずのオリンピックが終わった。とても無事に…などという結果ではないだろう。何かの番組で、「感激と興奮の祭典が終わって、後に“瓦礫”の山が残る(遺る)、誰がそれを片づけるのだろう」、と或るコメンテーターの発言である。日々の状況をみても“乾坤一擲”の大勝負に失敗、そう言わざるを得ないだろう、責任者は文字通り無責任では済まされない。
 祭のあとの静けさ、気だるさは詩になるが、騒乱の後の狂乱、大勢の啼くものと蔭で嗤うもの、格差は開き、世は分断がさらに進むのだろう。一時的な事であってほしい、そう信じたからこそ我慢もできた。ところが、今となっては誰も信じられない、指示、指導などもってのほか、誰がそんなこと聞けるものか…
 “自己責任”は当然だが、「酔いをさましに出た頬に そっといとしむかわやなぎ こんな情けが 人にもあれば」なんて古い演歌の歌詞が妙に心に沁みて、もっと何か手があったろう、今からでも遅くない、策はあるだろうと思ってしまうのだ。