「言った」「言わない」、「差し上げた」「貰ってない」、「受け取った」「直接ではない」(これは駄目でしょう…)、どちらかが嘘をついている、そしてどちらも“悪事”であろう。原則は推定無罪、疑わしきは罰せずなのかもしれないが、事としだいによっては、〝印象操作〝の分を差し引いたとしても、疑惑の時点で罰せられるべき場合もある(それがほとんど)。追求されると、勝手な理屈を並べるか、はたまた論点を摩り替えて、ひたすらほとぼりの冷める時を待つ…。淀み、吹き溜まり、清濁相食んでこその権力などと開き直ることが通用するのは、少なくとも半世紀も昔のことである…はずだ。どっち側でもよろしい、もう少し正直に、真っ当に生きられないものか、呆れてものも言えないでは到底済まされない。これはもう当事者だけの問題ではなく、その周辺(取り巻きと呼んでもいいだろう)を含めて(罪科の軽重は配慮すべきだが)、捜査なり、追求に及ぶことが重要である。〝責任転嫁〟、〝蜥蜴の尻尾切り〟いずれ実に嫌な言葉だが、これらに至らぬ(落としどころなどにしないで…)真相解明、そして償いがあってこそ〝当たり前〝のことである。