あまりにも有名なラストシーンで、待ち伏せしていた警官からの一斉射撃を浴びて絶命したボニーとクライドが実際に持っていた銃にそれぞれ26万4千ドル、 24万ドルの値がついて落札された。映画ファンなのか、銃そのものの収集家なのか、それとも単に投機目的なのかはわからないが、一人で落札したものらしい。
 『007』シリーズの近作で使用された“小道具”もオークションにかけられたとのことだが、こちらを“自分だけの物”とする誰かは、本物の銃とは違いあくまで も小道具であり、おそらくジェームズ・ボンドのファンなのだろう。いずれにせよ、双方、決してやっかみではない(つもりだ)が、“品がないこと”とまでは 言わないものの、少なくとも“粋な行為”とは思えない。人間の“収集癖”を否定するつもりは毛頭ない(その資格もない)が、映像自体かもしくはせいぜい写真 や文献資料の収集くらいで、偶にそれを眺めて往時を偲ぶのが映画ファンには“妥当な”愉しみなのではないかと思っている。<K>

 螺旋階段なら同じ空間をぐるぐる回っても、階上か階下かやがて は景色が変わり、道に迷うことはないだろう。さんざん右往左往させられたあげく、結局元の 場所に戻ってしまう のでは、エネルギーの無駄では済まされない愚かしさがあり、時間の経過がそれだけ罪深いこととなる。たとえ 同じ景色でも事態は深刻さの 度を増していて、もはや手のつけられない状況となってしまう。そしてまた何の 手立ても配慮もなく次の無駄な時間が過ぎていく。
 何時の間にか、何もしない《組織》か何かができていて、 何の効力もない《きまりごと》か何かができていて、全てが片付いた事になっている。《もう飽きた》 で許され る事ではない筈だ、《原発》も、《いじめ》も、《地震》も、《台風》も、何もかも…<K>

 限られたある範囲内で、ただ伝わったり、真似する者が現れる程度なら放っておいて良いかもしれないが、《嘘》が膨張し、まことしやかに、半ば事実として 周知されていくとなると、これは《汚染》というほかないだろう。個人情報の保護が叫ばれる事自体、個人情報を守ることはすでに不可能な社会になってしまって いるということだろうか。それとも広がりきったところで、あとは潮が引くように《ほとぼり》が冷め、騒ぎが鎮まるのを待つしか方法がなく、またそれが現代 では最も確かな対抗策ということなのか。
 持っている《道具は》使いたくなる、かつ過激な手段で、しかしその結果を想定もしくは覚悟しているかということになると、どうやらそうでもないらしい。 《自粛》などという言葉を昨今よく聞くが、その前に『自制』、各々が自らををコントロールする重要性を再認識すべきだろう。<K>

 3.11以前、夏と言えば、《節電》よりも《節水》であったような、際だった天候不順にみまわれることもなく、むしろ歓迎されない早い時季の台風で、 ここのところ水は《厄介物》扱い?だ。しかし節水は節電に通じ、その逆も言え、事はライフスタイル、対策と普段の心がけに基本的な違いはない。
 嘘が新たな嘘を生み、やむなく小出しに事実を漏れるが如く表に出すと、これがまた逆効果で、先の嘘を更に際立たせる自体に、あとは悪循環、悪印象の増幅で 抜き差しならないことになっていく。結局ほとぼりの冷めるのを待つしか手立てなしというのでは余りに能がない。<K>

 近親憎悪の理屈は良くわかる、遠交近攻は歴史の常識といえるだろう。しかし、元の木阿弥では誰も救われない。「大山鳴動してねずみ一匹」 いろいろ引っ張り出してくるのも面倒になる。
 冬の朝、上流の盆地で冷やされた湿った空気は霧となって狭い出口から急流を一気に下り、海に出たところで暖められて文字通り雲散霧消、そしてまた内陸へと 循環する。こうして同じ事が繰り返されるが、これは決して「0」と「1」の点滅ではない。行きつ戻りつの間に様々な歴史を演出して、単純な繰り返しでは 決してない。<K>

 根付いているとは言えない状況の中で、何事もなかったかのように取り繕うのは、 もはや浮いて流されているとしか言えないではないか?! 流れの穏やかであることを願うばかりというのではあまりになさけない…
 やがて海に出た時に、その先に目指す地がなければ、無限の時と空間を漂う“地獄”が待っている。何となく“原発”の町に漂着するというのは 御免蒙りたいが、 それでも“行く宛”があるだけましとの声が聞こえなくもない、しかし辿りつきたい場所は別にある。
 その昔、坂本竜馬はこの川を下り、この海を渡ってまっすぐ“目的”に向かって“目標”の地に上陸した。今のところ“目的”も“目標”も深い霧の中だ。<K>

 台風並みの低気圧が来た!《台風に匹敵する勢力》と言われてしまうと、台風に《馴れっこ》に なっている地方の出身者としては、なんとなく怖さも半減 するが、その最大風力は《観測史上最大》だった地域もあり、これは異例中の異例で  《別物》というべきだろう。被害の範囲も程度も予想を超えていたように 報道からは読み取れる。
 多くの企業(大企業というべきか)は早めに帰宅するよう社内に通達したというが、その一方で、東京都からは、かえって混乱に至るからと 様子を見てからの 帰宅を勧めるメッセージが伝えられた。誰もが自信をなくした状態がまだ続いている。気象庁に至っては、 「外に出るな!早く帰れ」と説得力もなにもあった ものではない。無表情に家路を急ぐ人々の姿はまた繰り返された。<K>

 供給危機をうたいあげておいて、電気代の値上げをさも当然のことのように“申し渡す”競争相手の いない電力会社。いつの間にか、元の暮らしに戻るためには“原発”の再稼動は必要と“胸を張って”おっしゃる閣僚たち。“喉元過ぎても” 忘れられない、“無かったこと”として見過ごせないことがある!そうかと思うと連日連夜、次の“震災に向けての対策”と称して、不安を煽ること の度合いの方が“安心に繋がる”示唆よりもはるかに大きいと言わざるを得ない内容の“報道”。それに、震災後の“無料広告”のせいで、この ところのテレビ(おそらくあらゆる媒体においても)のCMの量が、まるで“損失分を取り返す”勢いで増えているように感じるのは勘繰り過ぎ だろうか?
 なかなか行動は起こせないが、物申すことも憚られる者たちに対する“圧力”ばかりが日に日に増していく。“声の大きい”人たちだけが頑張って いるわけでもないはずだ。矛盾や不都合は取り除かれるべきだが、その優先順位が間違っているのではないだろうか。<K>

 寒いというだけなら当たり前なのだけれど、ドナウ川がかなりの流域で凍結したとあってはただごとではない。自身の氷で堰きとめられて、砕氷船を動員 しないと洪水となってしまうのだそうである。「とうとうと流れる美しく青きドナウ」などとはとても言っていられない。50センチの厚さの氷に覆われるとなると、 冬とはいえこれは現地でもよくあることではないそうで...とはいえ、じっと耐えて時《やがて来る春》を待つほかあるまい。<K>

 今まで口に入れつづけていたものが、その一部とはいえ危ないかもしれないと言われては、人として躊躇してしまうのは当然だし、誰にそれを責められよう。 それでもなお生産者を思い遣って目を瞑り、あえて食することが問題解決となるのか?
 突然、放射線量やら、予想電力消費量など、俄かには信じられない数字が登場し、それを頼りに右往左往させられているのが現状で、“無責任”に言いふらす 側にこそ風評の原因があるのではないのか。
 さて、地震の教訓は今回の台風に活かされることもなく、“東京の人たち”は同じ失敗を繰り返してしまった。こうなると責任は“東京の人たち”に、 使えるべき情報を整理して伝えていない“機関・機構”にあるのではないか。
 “東京の人たち”は、実は何もしてくれない人たちではなく、もしかすると見えない重しを背負わされていて、何かをしようにも何もできない人たちかもしれ ないことを立場を超えて理解し、自らをどうあるべきかそれぞれ考えることこそが“風評被害”などという無責任でまさに人迷惑な言葉を世に躍らせないための 有効な対策なのかもしれない。<K>

 “情報公開”を叫ぶと、“フィルターなし”だと、民衆がその取捨選択に困ることになって、かえって混乱をきたすことになるという声が上がる。“統制” に即した情報のみを流すと「嘘だ!不充分だ!」と、待ってましたとばかりに形を変えて意見・不平・不満が噴出す。それは過去と違って、どうやら国の体制に かかわらずのこととなってきたようだ。
 それではどうすれば良いのか、これを最大のテーマとして世に問い続けるのが、情報を“整理して”茶の間に届けるマスコミの使命ではないのか?!社会を 縦横に結ぶのがマスコミの仕事であるはずなのに、現状は社会の“上”にただのっかっているだけのような気がしてならない。
 昨今の報道を見るにつけ、“信じられない、信じてはいけない”という意識を強くせざるを得ないことばかりだ。たとえば、“節電”を横並びで朝から晩まで テレビその他で訴えられたら、“善良”な小市民としてはエアコンの電源を入れることにある種罪悪感を持ってしまうことにならないか、もしそれが原因で事故が 起きたとすれば、その責任は誰が負うべきなのだろう。「“節電”は当然ですが、停電覚悟で、どうぞエアコンを使って“快適”にお過ごしください。その代わり 当社は深夜の放送(夕刊の発行)を休止します」くらいの個別の“キャンペーン”があってこそ、はじめて自由社会のマスコミのあるべき姿なのではないだろうか。<K>

 東日本大震災では、多くの製造工場が被災し、生産中止に追い込まれた。しかし、早期に再開を果たした企業もある。指針になったのが、事業続行に向け 具体的な手順や方針を定めた事業継続計画(BCP)だ。
 宮城県柴田町にあるR社。工場の天井やダクトに破損が見えるが、ほぼ通常通りの生産を再開しており、震災の傷痕は驚くほど少ない。 [2011年5月4日 asahi.com]
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 BCPとは、自然災害や感染症の流行などの具体的な脅威を想定、企業の業務復旧までの道筋をまとめた行動計画。緊急時の社員の安否確認から復旧までの 役割分担など取り決めがある、Business Continuity Plan(事業継続計画)の略だという。「喉もと過ぎれば...」を語るレベルをはるかに越えてしまった 今回の災害とその後遺症であるが、“言い訳じみた分析”こそちらほら出てくるようにはなったものの、記事のような現場での事例が他には余り目につくことがない。 こうした「最悪の状況を想定したうえで、最善の対策を予め準備して、それを実際に適用できるように訓練しておく」ことが、単なる“優良”な一企業の“成功例” であってはならない、分析は分析として、これもまたより突っ込んだ“取材”をして、“公開”してしかるべき『情報』であるはずだ。<K>

 深夜まで続いたある方向への限りなく暗い無表情の人の波、そしてそれとは対照的に煌々と明るいが、これもまた気配を感じさせない無機質な車の渋滞。 それを、動く事を諦めて、いや自重して4階のベランダから時折確認するように垣間見る異次元感覚に支配された自分自身。喜びなどではあるはずもないが、 悲しみでも、怒りでも決してない感情などというものを超越してしまった“空気”が世界を覆いつくしてしまったかのようだ。
 一夜明けて、更にふた月を経過して、街は多少の混乱を引きずりつつも、「何事もなかったかの如く」の決着を“罪”として、それでも平生を取り戻そうと 健気な奮闘を続けている。
 前とはちょっとだけ違う価値観が、新しい時代をかたちづくる、それは決して退却とか逆戻りといったものではなく、あくまでもちょっとだけ違う道を模索する 旅が始まるということだと信じたい。<K>