総括なくて新しい展開などあるはずもなく、分析する労を厭うなら、無理だというのなら、せめて積極消極的に肯定もしくは否定してから全てを始めるほどの 気概をみせてこその説得力というものだ。何も終わっていない、片付いていない。世はまさに“目くらまし”ばかりが横行し、やたらと責任転嫁の空しい選択を迫 る。時が移れば決して同じ景色ではあり得ない。似たようなものではあるが、必ず何かが何処かが変わっているはずだ。それを別物に置きかえる必要性がどこにある のだろうか。意志を持たない者、持とうとしない者、そうされてしまった者たちの無関心な選択が世の中を動かしてしまう究極の皮肉に、“天に唾する”報いと転機 を越えても悩まされ、そして諦めなければならないのだろうか?!諦めきれない!!<K>
迷い込んで辿り着いた先が明るい場所でも、たとえ暗闇でも、出口に辿り着ける事ができれば“策”はある…少なくとも考える緒につくことができる。 エリオット・ネス(『アンタッチャブル』)への、右腕だった部下の最後の言葉も「悲しんでいる場合ではない!何か“策”を考えろ!」というもの だった。 怖いのは出口を見失う“無限地獄”だ。後戻りさえままならない。“公共放送”の子供向け番組の中で、子供に段ボールで設えた迷路を歩かせる コーナーがある。 子供達は文字通り右往左往の状態だが、さすが“憂い”を持たぬ者のこと、諦めることをしないで、やがては出口に至る。平面の迷路は 入口からどちらかの壁を 辿って進めば左右どちらを最初に選択するか、それによって出口までの所要時間に大きな差が生じるものの、とにかく、同じ道を 二度と繰り返すことなく出口に 達することができる。“近道”を見つけ出せる者、運良く見つけ出せた者に対し、“効率”とは無縁だが、とにかく間違え ないで一歩ずつ進もうとする者、いずれ も結局のところ“正解”を見出せたことになるわけだけれど、それぞれの“違い”を認識すべきである。道を 見失った、或いは見失いかけた者を救うのは、決して 前者ではなく、後者だろう、所謂“勝者”に導かれて、もしくは引きずられて得た“出口”は次なる “無限地獄”への入口に過ぎないはずだ。<K>
突然外された梯子は架けなおすか、諦めて別の道を探すしかないが、いずれにせよ“検証”を省略することはできないだろう。結果ばかり見て一喜一憂する
者に口を挿む資格はないが、当事者とて、知らぬ間に祭り上げられて勘違いをし、冷静な分析・判断を忘れて右往左往するばかり(といってしまうのはかわいそう
に気もする)というのでは、何の方向性も見出せず、解決策など糸口さえつかめるはずもない。根元をみよう、そもそもの出発点を見直そう、時間がかかって特効薬
にはなりえないが、やはり急がば回れを肝に銘じるほかあるまい。
昨日までの英雄もしくは人気者が、一夜にして色褪せて、むしろその動向が滑稽にさえ映る残酷さ
は、また、筋の通らぬものに、或いは見えない(あえて見ようとしていなかった)権威・圧力に翻弄される状況は、どちら側の人間にとっても大いなる理念保持の
意志の欠如を悔いるほかはない。<K>
腹立ち紛れに一度は邪険に追い出しておいて、周囲の様子を眺めつつ、表立って刃向かえないのをいいことに永年さまざまな“仕掛け”を繰り返し、いよいよ 今度は掌を返して持ち上げる。経済的見地から見ての身代わりの速さという点においては見事というほかない。ただし、人として、その感情において割り切れなさは 残る、むしろ前にもまして高まる不信とともに...“俺が育てた”“友だちの友だちが有名人”の類と大差ない。一度手に入れたものに自己主張は許さない、 それすらも“お伺い”を強いる厚顔無恥ぶりはうわべを飾る分実は醜いことこの上ない。なるべく遠ざかっておきたいものほどおためごかしに近づいて、ちょっと 油断すると身動きが取れない状況を作りあげられてしまう。面従腹背のアドバイスもままならず、お互い利用し合えるほど甘い社会ではない。笑顔のまわりにどす 黒い欲得の渦が見え隠れするのを奇麗事で済ませるほど、こちらも無垢ではいられない。願わくば、時を経て、“経済活動”とは一線を画した行動を望み、かつ しばらくはそっとしておきたい、それこそが“情け”というものだろう。さて、いったい何のことでしょう?<K>
雨の時季に雨が降らないと、とにかく精神衛生上よろしくない。まずは平年並みに降って田植えも無事に済み、この夏もなんとか水不足の困った状況にならず に過ごせそうだと確信めいたものをもつことができたうえで、雨量が多い少ないに言及するというのではあまりに身勝手すぎるか?!ずいぶんとはやい“入梅宣言” があったと思いきや途端に“空梅雨”、“水不足”の大合唱!「宣言したから雨が降らない」と家人は言うが、ビールメーカーとか、アイスクリーム業界とか、 傘などいろいろな方面からの圧力もあったろう、“法的責任”のないことなら、言っても言わなくても、大きい方の“声”に従っておいて何の問題もないということ かもしれない。しかし世の中文句を言っていく先のない“ただのもの”で翻弄されることほどイライラさせられることはない。“入梅宣言”がなければ“空梅雨” 報道などというものもないのかもしれないし、発信者側は持ちつ持たれつだが、知らされる側だけが常に右往左往してそれを見て愉しんでいるかもしれない何者かが いると思うと余計に腹が立つ。言ってはいけないことなのだろうけれどが、台風一発で“靄”が晴れるとすると、決して歓迎こそしないが、少しだけ期待してしまう のは(断じて被害は困る!)許されないことだろうか。<K>[2013.06.10]
微かな胎動を信じて開きかけた口があっという間に以前にも増して堅く閉ざされてしまった。物言わぬ者を無視するかのように“半分の半分”による声をかなり 水増しして、まさにこの世の春の“乱痴気騒ぎ”は見苦しいばかりだ。沈黙してしまった側も、そうでない側も、いずれの側も大半は“正直者”たちに変わりは ない。みんながみんなやや過剰気味に“敏感”になって、かたや天岩戸で、一方は恐る恐るの態でひたすら空気を読もうとするいや流されるばかり、そこに選択とか 自己主張などありえない。何をしても何があってもただただ“人のせい”にすることにのみ戦々恐々、とにかくしり込み後ずさりで、声の大きい者だけが正当性は 我にありと肩いからせて、しかも満面の笑みとすれば、たとえ小声でも「それは理不尽」とせめても心うちでつぶやこう(断じてツイッターではない!)。<K>
いろいろ言い訳はあったが、結局誤報であった。そのせいで新幹線は止まり、こちらは家人とともに震え上がってしまったが、テレビの生放送(高校野球)は 中断もされず、まさに何事もなく進行していた。『緊急地震速報』から30秒、1分と経過するも何事も起こらない、ただエアコンの効いた部屋で時の過ぎ行く ままに“その時”を待つばかりの状況が、やがて間が抜けた、オチのつかない、こちらもまたなしくずしになんとなく収束するしかなかった。考えてみると、テレビ の中の高校野球が中断されて、その“理由”が場内放送されたとしたらどうなったか、それこそおそろしいではないか、それを他所から見ている、あるいは見せ られている状況というのは想像するだけでも更にそらおそろしい。“誤報”にいたる原因はわかった(100%信用していいものかどうかは別として)が、 “誤報”でよかった...待て待て、「よかった」では済まされないだろう。<K>
連日の猛暑にうんざりさせられ、相変わらず地震に怯え、酷暑につきものの雷が落ちて閉所に閉じ込められて灯りも落ちる。台風は雨を呼び、さらにゲリラ 豪雨に異形の進化を遂げて、ついには竜巻などという怪物を産んでそこらあたり在る物を木っ端微塵に蹴散らしてしまう。それでもなお水瓶には在るべき水が乏 しい。その割にはまさに渦中にある人は誰も至極おとなしい。嵐の過ぎるのをじっと待ち、ただただ耐えてやり過ごすがごとしで、口を噤んだままされるがまま 生気なく右へ左へ前へ後ろへ、まさに2年半前の記憶が蘇る。誰が生けるもののエネルギーを消え失せさせたのか、吸い取ったのか、自然の脅威に只管畏れを抱く のは勝手だし、結局は人災だなどと嘯くのも無責任とあれば、惨状を映像に残して、せっせと投稿するのも傍観者として自らを別の世界におこうとする自衛の行為 で、あながち情け知らずの不届きなことだと非難できないことなのかもしれない。住まいが“全壊”して途方に暮れて、幸か不幸か“半壊”と“認定”されてむしろ こちらこそ途方に暮れて、かといって停電程度で助かったなどと軽々に言えることではない。災いはやむなく偏在するが、本来は平等に被るべき、いや公平に分担 すべきものであるとするのは所詮きれい事でしかないのだろうか。<K>
上陸するということになると、10年ぶりの強さだという台風26号が列島の南岸の何処かを目指して北上している(10月15日現在)。今年は台風の被害が相次ぎ
、それだけに事前の“警鐘”の声が毎正時のニュースにて、経過を追うにつれより深刻さを加えて繰り返されている。いつもより今回は例年より大きな被害が続いて
いて、その“温度”が高いような気がする。とりわけ極め付きは京都での被害、被災地の場所の別に差をつけるつもりはないが、なんとなくたとえ故郷ではなくとも
より心理的なダメージが大きかったような、そんな記憶がある。“空騒ぎ”であり“取り越し苦労”であればそれに越した幸いはないが、“狼少年”とまでは言わ
ないまでも、冷静さを欠いているというか、むしろ発信者間で競うようにより大声で騒ぎたて、不安を煽っているという印象もなくはない。確実に、より具体的に
警戒を喚起することと、CMの合間にヘルメットを被った新人?アナウンサー?を荒れ狂う海岸通りに立たせて“レポート”させるなど、“他所事”の印象が拭えず、
おそろしさなど伝わるべくもなく、危機感とともに準備・対策を促すなどもってのほか、むしろ逆効果ではないか。
防災関連の報道は、公共放送に頼るべしと常々思っていたが、ここ最近はそうでもないかもしれない、“その時”にどこにチャンネル・周波数を合わすべきか、
まずそこから検証すべきなのかもしれない、あくまでも個人の裁量で...<K>
“有無を言わさない”用件があって、実に40年ぶりの場所に立つこととなった。街並みそのものに変わりなく、タクシーは記憶どおりの道順を辿ったが、
当時新しいとされていた大橋が近く架け替えられると運転手氏が言った。田んぼがひろがっていたところに大型店舗が立ち並び、それに“反比例”するがごとく、
中心であった通りはすっかり寂れて“シャッター商店街”と化していた。ここに映画館が2軒あった。『卒業』と『あの胸にもう一度』(アラン・ドロンの、子供
には少々刺激的な作品)ともう1本の三本立てを観た、大橋のたもとにあった『東映』と、橋を渡って更に歩いて5分ほどの距離だったか『銀映』といった。その
いずれも今はなく、運転手氏によると、『東映』はその後老人ホームとなり、さらに現在はマンションに落ち着いたとのこと。
ゆめゆめ思いもしなかった高速道路が通じ、鉄道も遠回りの海沿いを走る線に加えて、トンネルを無茶苦茶堀りに掘って、直線的な山線が開通し、特急はこちら
を走っている。馴染み深い海線(寅さんが夕陽に向かって列車を待った駅がある=「殿様と寅次郎」)側の寂れようもまた想像に難くないが、マッチ箱のディーゼル
カーがコトコト動いているだけでも良しとすべきか...これもやはりバランスのとれた成り行きというものかもしれない。<K>
その後の状況を見ればすぐにわかる、たとえ目を瞑っていてもわかる、目をそむけていてもわかる。建前の合間合間に本音が覗き、気づいたときには既に
手遅れ、なるほどこれがしたかったのかと目の前に突きつけられて、そして諦めて...、やがてその先にあるものが無限の闇では救われない。それもこれもかつて
の怠慢、手抜きの“ツケ”がまわってきただけのことで、どこに文句を言っていく先もない。
格差が広がるにはそれなりの理由もあるだろう、しかしその格差が見えなくなると、あるいは触れてはいけないということになると話は別だ。知らず知らずの
うちに“あちら側”と“こちら側”に識別され、ゆとりのある側がゆとりのない側に対して“要らぬお世話”をし、賢い側が賢くない側を
“指導”する一方通行的な社会はただただ薄気味悪いばかりで、一部の「まことに便利!」の賛辞が聞こえるうちは不愉快なだけだが、それすら聞こえなくなると、
もう“闇”どころではない。
とにかく、望まなれないこと、“本当はこれがしたかったこと”に関してのみやたらその処理が早い、要望の強いことへの対応が“拙速”で、そうでないもの
ばかりがやけに手際が良い、ある程度のことは覚悟していたとしても、露骨に過ぎるのではと今ごろ嘆いても“遅いでしょ”と笑われるばかりだろう。そしてある
かどうかわからないが、次の機会にはまた別の何事かで目くらましをされて、肝心なことはブラックボックスに入れられてしまうのかもしれない。<K>
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