『サウンド・オブ・ミュージック』夜の部開演。お馴染みの、マリアが居なくて大騒ぎの修道院のシーンから。10ペンスでオペラグラスを借りる。
森で、メインテーマ“サウンド・オブ・ミュージック”を唄いながらマリア登場(ペトラ・クラーク)。生で聴く歌はやはり素晴らしい。修道院からトラップ家
へ家庭教師として派遣され、不安な気持ちを振り払うようにトラップ家の扉を叩く。キャブテンの厳しい躾に驚くマリアだが、マリア流のやり方ですぐに子供達と
打ち解ける[“ドレミの唄”]。新しいママが来るというので、マリアは邸を去り、修道院に戻るも、マザーに諭され、また、キャプテンへの愛を自覚して再び邸
に赴く決心をする。
物語は佳境に入る。結婚式、そして有名なナチスを嫌ってのコンサート・ホールからの脱出、そして逃避行、キャプテンの唄う“エーデルワイス”、声を詰まら
せて唄えないキャプテンを扶けるマリアと子供達(涙が溢れて止まらない)、フィナーレ。ヴィクトリア駅前のアポロ・ヴィクトリア劇場を出るともう深夜、
これからではパブも開いていない。舞台か酒か、倫敦の夜はわかりやすい。そして、30年の年月が流れて...。その劇場が大変なことになってしまった!演劇
の上演中に天井が崩落し、観客ら76人が負傷、このうち7人が重傷を負ったという。
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シャーリー・テンプルが10日、米サンフランシスコ近郊の自宅で死去、85歳だった。米映画界の元名子役で、「ハイディ」「テンプルちゃんの 小公女」などに出演したというが、さすがにどれも作品を観てはいない(『ザッツ・エンターテインメント』のどこかででも扱われていたか、MGM との縁は薄かったようでそれもないかもしれない)が、その昔、子役といえばシャーリー・テンプル!と言われていたことは承知している。大恐慌の 時代、時の大統領ルーズベルトに「シャーリーがいる限り、アメリカは大丈夫だ」と言わしめたというから、これは単なる子役ではなかったということ なのだろう。1935年には、アカデミー特別賞を受賞した。ハリウッドの歴史を扱った番組企画などには決まって顔を出すが、いかにも“アメリカ人 の子供”の代表といった雰囲気だ。訃報の記事に2006年当時の写真が添えられていたが、十分にその面影を残していた。後に外交官としても知られ、 ガーナ大使、旧チェコスロバキア大使などを歴任したという。『日曜はダメよ』のメリナ・メルクーリなどもギリシャにおいて文化大臣を務めたが、 “外国にお友達が多いから”だけで務まるものではないだろうから、その方面の能力も相応にお持ちであったのだろう。<K>
お互いそれほど活発とはいえない性格で、幼馴染の“よしくん”はよほどおとなしい子供だった。体調をくずしていることは聞いていたが、亡くなったと の知らせは、やはり唐突で残念でならない。そんな二人が、ほぼ同時に野球のユニフォームを買ってもらったことをどうした経緯かはともかくよく覚えている。 それぞれが親に縫い付けてもらった背番号は、私が[23]で彼は[8]であった。[23]は阪神タイガースの[吉田]、[8]は大洋ホエールズの[桑田]だったのだが、両人 とも当時の“地方”では中継もほぼ『キョジン対それ以外』であって、相当の“へそまがり”だったのかもしれない。お相撲では、私が[佐田の山]で彼は[若秩父]、 これもまた両人とも大鵬ファンでないところがなんとも味わい深い。彼は小学校を卒業と同時に県庁所在地へ引っ越していった。それ以来会っていない、いや一度 だけ路面電車の引き込み線のどん詰まりにあった新居を訪ねた記憶がかすかにあり、その折に顔を会わせたかもしれないが、親の方の用件で訪ねただけだったか、 その時の印象はもうない。その“よしくん”が、更に遠く離れて静かに逝ってしまった。阪神はその後1985年に日本一になり、佐田の山は出羽の海親方となり、 やがて理事長になった。一方、大洋ももう少し時間がかかったものの、またチーム名こそ変わったが同じく日本一になった。若秩父は常盤山親方として向正面の解説 として長くお茶の間にはなじみ深かったなどという話をちょっと“得意げに”話してみたかった。<K>
「よき訓話が響かない。悪意なき悲劇の開始コールだった」(東京新聞『スポーツが呼んでいる 藤島大』より)という活字が心に響いた。昨年10月の就任
当初の様子を取材した記者の印象らしいのだが、あるプロ野球の監督が事実上の解任なのだろう、先日不振球団おきまりの“休養”ということになった。名前を
隠しても意味がないが、その名が監督として発表されたときに一番嫌な人が監督になってしまったと当時個人的には思ったことを覚えている。
何を言われようが強いられようが、抵抗どころかほとんど反応がない...。これで全てが受け入れられたと思うのは大間違いだ。要するに心に響かず、従って
面と向かって歯向かうようなことも起こりえない。むしろ“烽火”でもあがれば対応のしようもあるだろう、軌道修正も当然考えねばなるまい、とにかく何らかの
方策が考えられる(例えばどちらかを“配置転換”するとか?)。さして不快には思わないが、何を言われても心に響かないものだから意識につながらず、当然期待
される結果に向けての行動を伴うこともない。どうしたものか対応に困るが、露骨にいやな顔をするわけにもいかず、ただただ周囲の様子をうかがいながら“時”
を待つ。「或る種の枠を押し付けて、それが通用するような時代ではない」というのはやさしいが、ことはそういうことだけでもなさそうだ。
“結果”が出ないのは誰のせいか、それぞれの側にあるのは無論だが、“管理”する側のある種の“読み間違い”は否めないだろう。
目の前に居る人の心をつかむのは難しい、むろんその先にいる彼らを取り巻く人たちの心など推し量ることさえ更に難しいことだし、誘導するようなことは 論外だ。ずいぶん昔の話になるが、この“元監督”が某球団の監督だった時、その期待に応えられなかった投手に交代を告げたあと、ベンチの中でカメラでとらえ られていることを知ってか知らずか怒鳴りつけるシーンが今でも何かの折に流され、音声が無い分いかにも“ネチネチ”と指導をこえた何か不快な雰囲気をもって 映し出された。その時のただただうな垂れていた投手も今では別のチームでコーチとして働いているところをみると、その“指導”は今に生きているのかもしれ ないが、不快な印象だけが残ったことを記憶している。その人物が望まれて返り咲くという形で監督になったが、本人にとっては、おそらくなんだかわけもわから ないうちに辞めさされてしまった?ということなのだろう。精神に“芯”をもつことと声高に事を強いるというのはまったく別のこと、きっとこの“元監督”は 野球というスポーツが元々たいして好きではないのかもしれない。そういえば解説者時代もその印象は、別段視聴者に阿る必要はないが、それでももう少し愉しい 言い方はないものか(決してくだけたものにしろというわけではない!)と、この人の解説する中継は二度と見たくないと思えるほど実に不愉快なものだった。 今回のことは、表向きはあくまでも“休養”なのかもしれないが、実際のところ“無期停学”と受け取るべきではないか。<K>
青年は徴用兵としてベトナムへ送られる前の2日間を利用して、オクラホマ州のとある田園地帯からニューヨーク見物に出かけた。朝もやのセントラル・ パークで彼を出迎えたのは、奇妙な風体のヒッピーたち。彼らは徴兵カードを焼き棄て、地上に愛と平和の“アクエリアスの時代”を呼び起こそうと集会を繰り 広げていた。そこに突然現れた上流階級の娘に心を奪われた青年をはやしたてつつも応援すべく、ヒッピーたちは山の手のお邸に乗りこみ彼ら流のパーティを展開 する。一計を案じたヒッピーのリーダーは、自慢の長髪を切り落とし、士官を騙して青年と入れ替わり、二人の束の間の対面を実現させるが、その間に出動命令が 下り、青年が急ぎ兵舎に戻った時には、すでにリーダーは雲間に消え、やがて前線に散った。『レット・ザ・サン・シャイン・イン』が感動的にスクリーンを包み 込む。その墓の前で仲間たちは悲しみを越えて本格的に立ちあがり、連帯する若者たちの怒りと熱気につつまれて幕は降りる。こうして反抗するエネルギーは覚醒 したが、今の時代にしっかりと受け継がれたかどうかというとそうではあるまい。<K>
速報が入る、次いでニュースになり、やがて詳細が伝わり、ついでに“尾ひれ”まで付いてくる。いつの頃からか、もっと以前のことかもしれないが、 “阪神・淡路大震災”において顕著になったような気がする。情報ネットワークの過剰ともいえる進化によるものなのだろう、まず事件、事故、或いは災害の 第一報がもたらされ、やけに衝撃的な映像を伴いつつ(ほとんどが一般からの投稿映像だというが、目の前の状況を撮影してポンと何かのサイトに“送信”して しまう手軽さは、その深刻さとは裏腹になにか“軽さ”というか“薄ら寒い”ものを感じてしまう)、しだいに深刻さを増す一方の状況が矢継ぎ早に飛び込んで きて、必要かどうか判断できないが、被害者や被災者の“人となり”まで見させられる(語弊があるかもしれない)。そして、次の“お知らせ”事項が発生する までの、まるでつなぎのように、これでもかと繰り返される。決して“飽きる”などと言ってはならない!それでは“人でなし”になってしまうから、何かの行動 を起こさない者へのプレッシャーなのか、かえって気持ちが“引いてしまう”と言っては、これもまた“人でなし”ということになるだろうか。伝える側の意図が 見えなかったり、逆に見え過ぎたり、あらゆることの質量が下がり“瞬間視聴率”のみが重要視される傾向は更に進んでしまっているように思える。<K>
今年の暮れは忙しなくも賑やかなものになりそうだ。いわずと知れた選挙である。その狙いは、「結果の読める状況で思惑通りの“結果”を得るための プロセス」ということで間違いではないだろう。その思惑の分析は他に任せるとして、問題としたいのは『小選挙区』という選挙制度だ。“一等賞”だけを良し とする容赦のない切捨て手法。かと思うと“敗者復活有り”のわかりにくさ。それでもやはり最も不幸なのは、この中から選ばなければならない“絶望感”と “諦め”の中で、最大の権利を行使せざるを得ない選ぶ側の状況であろう。いっそ全てを全国区にして何百もの候補の中から上位定員数を選出するというのが 明快で、選択の幅も限りなく広いものになるかもしれない。名前の売れた所謂タレント候補の大陳列ということになりはしないかという怖れもあろうが、選択肢が 少ないよりはなるかに“まし”な感じがしないでもない。「一票の格差問題」も一気に解消だし、“地方切捨て”の謗りは免れないところだが、地方に親戚縁者を 持たない都市居住者など多くはないだろうなどの要因も考えると、あからさまな“地方切捨て”に直結するとも思えないのだが...<K>
「ダメなものはダメ!」と言い切ってしまうと“頑な”で“融通が効かない”とされ、「この程度ならまぁ良しとするか」とすると“優柔不断”とか“信念が
ない”などと言われてしまう。要は時に応じた対応ということに尽きるかと思うけれども、これがなかなかに難しい。“勝ち馬に乗る”あるいは“寄らば大樹の陰”
の事なかれ主義ではあまりに情けなく、むしろそれは“真面目な選択”を心掛けようとする者の足を引っ張るばかりということになるだろうし、“暴走”の“歯止め”
どころか“火に油を注ぐ”ことにもなりかねない。本人にその意識が薄いだけに“罪深い”のである。盛り上がると、一方で冷めて行き、後のないものを更に追い
詰めるような酷い扱いがまかり通るのが当世の常だが、どこかで奮い立ち、どこかで冷静な対応を目指す、あくまでもバランスを保ちつつ、“ちょっとずつ”前に進む
(場合によっては後退しても...)ぐらいが理想なのだが、全てがゲーム感覚で“勝ち”か“負け”しかない風潮にあって、それこそどちらかに属さないと個人の
存在すら脅かされかねないという過酷で不幸な時代を誰が愉しんでいるのだろうか?!
勝ちでも負けでも、結果は甘んじて受けるしかないが、「どちからというとこちら」というやむを得ない選択が、明確な“支持”ととられてははなはだ不本意なので
ある。<K>
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