こんな唄もあったんだ…というものに出くわした。新宿駅西口から右に下った大ガード脇の飲み屋横丁が舞台であるのだろう。もう30年以上も大昔のことだが、
ほぼ毎日(毎夜)通りがかっていた(そこに通っていたわけではない、まさに一角をかすめてその先の地を目指し、それから数時間の後終電間際に逆にその道筋を戻って行った)。
作詞:吉田 旺 作曲:船村 徹
空にしてって 酒も肴も▼今日でお終い 店仕舞▼
五年ありがとう 楽しかったわ▼
いろいろお世話になりました▼
しんみりしないでよ ケンさん▼
新宿駅裏 紅とんぼ▼
想いだしてね 時々は
そうしたある日のこと、勤めていた会社の先輩(小さな会社でとりあえずこの人が“社長”ということだった)に連れられてこの横丁の中の飲み屋に連れて行かれた。
確か『静(しずか)』という店名であったような記憶があるが確かなことではない。ほぼ満席(といってもせいぜい五、六人だったが)状態で、“静”
ママはすっかりおじさまになった“社長”に「坊やはこっち」とカウンター内の丸椅子に呼び込んだ。30分も居たか、勘定の段になって“静”ママが「1万2千円」
と言い放ったのに“社長”は何も言わず支払って店を出た。戸口で一人飲んでいた若者の酎ハイのジョッキを持つ手が一瞬止まった、いくらなんでも高すぎるだろう…
若い頃のツケを払わされているとのことだったが、これも定かなことではない。いずれにせよ微妙な金額ではある。<K>
見落としてはいけない、見逃してはしまいに泣きを見る、見過ごしてはかえって禍根をのこす。“お祭り”に浮かれるのはけっこうだが、ここぞとばかりに、 何かを仕掛け、何かを有耶無耶にしてしまおうとする動きを決して許してはならない。それまでせっかくいよいよのところまで追い詰めても、とどのつまり“起訴猶予”、 何もなかったでは“すまされめぇ”、“不都合”“不具合”を質(糺)さないでは寝覚めも悪い。祭りの後は寂しく虚しい、しかし断じて無気力に陥ってはならない、 それが“思う壺”と仕掛けた側を喜ばせることになりかねない。オリンピックの約2週間、成果をただただ無邪気に求めるのはあまりに浅ましいし、 陰に隠れて在るものの思惑・策略に乗せられてしまうことの弊害をやがて思い知らされることになりはしないか、媒体の種別を問わず、 同じ内容を見せられることにに大いに心配の念を抱くのである。たとえ見辛くなっていても、そこに在る確かな“危機”に目を背けたり、瞑ってしまってはならない。<K>
うっかりのぼってみたら、確かに景色は良かったが、すぐに梯子を外されて思い出した“高所恐怖症”、まさに二進も三進も行かず、その場に立ち竦むばかりと相成った。
覚悟を決めて飛び降りるか、もしくは卑屈を承知でひたすら謝って、懇願して“救助”を待つか、いずれにせよ、
長い時間怖さと恥ずかしさの中で晒し者に成り果てる始末は取り返しがつかない。
けしかけられても安易に動ぜず、甘い言葉にも揺らめかず、おだてられたらむしろ疑念を抱き、あくまでも冷静に状況判断をし、バランスのとれた対応を崩さない。
臆病ではない、小心などであるはずもない、周りを思い遣り、あわせて自身を確かに保つ、これこそが生きる道だろう。おだてられた何とかは、
窮地に陥るとただただ慌てふためくばかりで、自分では何も決められず、その右往左往振りも醜いだけと思い知るべし!その場しのぎは、
決してお互いの為にならないということだけは確かなことである。<K>
転轍機
“てんてつき”と読む。現在はおそらく“絶滅”したろうが(ひょっとして何処かに残っているかもしれない…)、線路のポイントを手動で切り替えるためのものだ。
そして、ホームの上て下ての踏切脇には決って『腕木信号機』があった。今手もとにすっかりセピア色に変色してしまった一枚の写真がある
(データ化したのでこれ以上の劣化はしないだろう)。すでに他界しているぽっぽ屋の制服姿の父がその転轍機の前で蹲踞の態勢で腰をおろし、
左膝の上に赤ん坊を座らせている。父三十代半ばといったところだろう。残念ながら抱えられている赤ん坊は私ではなく一歳に満たない弟であり、
従ってこの写真も四歳下の弟の“宝物”である。まさに鉄道マニアには“垂涎”ものの“ワンカット”であろう。兄としてもまとこに羨ましい限りだ。
所帯を持って五、六年で二人目の子供、ようやく経済的にもある程度落ち着いてきて、少々余裕らしきものが出てきたころかもしれない、
おそらくこれを撮影したカメラもその頃買い求めたという二眼レフカメラで、同僚のどなたかにシャッターを押してもらったものに違いない。
隣りに石炭置き場があって、冬の寒い日、そこから職務室のダルマストーブまで、ひしゃげたバケツで燃料のための石炭を運ぶ手伝いをしたような記憶が微かにある。<K>
『さようならの紅いバラ』なんて色っぽいう歌があった。ペドロ&カプリシャスの曲で、ヴォーカルは、その後高橋真理子の歌唱でも聴いたけれど、
初代の前野曜子だった。「紅いバラが枯れるまではさようならを言わないでね」というところがサビで、ここでドラマチックに盛り上がるというわけである。
とにかく薔薇は艶やかで、倹しい雰囲気など微塵もなく、またあってはならない!『五月のバラ』歌い手は塚田三喜夫、
「五月 この僕が帰る まばゆい五月 紅いバラは 思い出のバラは 君の庭に咲くだろうか」これもまたどちらかというと“歌い上げる”曲で、
そういえば布施明の『君は薔薇より美しい』というのもあった。ヴィレッジ・シンガーズの『バラ色の雲』はあくまでも雲の色であって、薔薇の花そのものは登場しなかった。
昭和は遠くなりにけり、昭和どころか平成ももう僅かということになってしまった。しかし、昨今歌はむしろ昭和に回帰しているような気がしてならない。レコード、
CD、ダウンロード、結局のところ、時代、媒体に関係なく、歌そのものに接しようとすると、その中身ということになろうか、いいものはいいのだし、
いいものだけが残っていくのである。<K>
わが故郷の地方公務員が“役所の中の役所”と人は言う?“上級”のお役人に虚仮にされている。どちらを信用するかと言えば、 情状抜きでも前者のかたをもちたいのだが、残念ながらどちらの言い分が結果的に通るかというと、誰が見ても理不尽で、断じて釈然とはしないものの、 “声の大きい”方の主張ばかりがまかり通る。本人とは無関係に、その背後にあるものの大小・強弱で“声量”に差が出てくるとすれば、『民主主義』など、 まさに“幻想”である。追及され、追い詰められて、ひたすら逃げ惑うというのならまだ“可愛げ”があるが、何かを、誰かを踏みつけにしても守りたい“正義” などあるわけがない、あってはならない。立場と個人を天秤にをかけるとどちらが重いか、あくまでも文化の違いは否めないことを前提としてのことだが、 微妙なバランスをもって、左右に揺れつつ時を経るというのが社会というものだろう。その二つが一体になってしまったところに、人の“心”を軽んじ、 さらに大切なものを見失う恐ろしさがある。<K>
故郷の地名を間をおかず聞くことになった。氾濫し、大きな被害をもたらした『肱川』という、長くはないが、途中に盆地を抱え、 真冬にはそこから溢れた霧が流れ下る、土地では『肱川あらし』と呼ばれる気象現象が見られる河川だが、今回は集中豪雨による洪水で、各所で決壊した。 半世紀も昔のことになるが、この川はよく増水、氾濫を繰り返していた。家屋だったか、記憶が曖昧で少々大げさに記憶として残っていて、 もしかすると小屋程度のものだったかもしれないが、川の中ほどを流れていくのを見たことがある、それも一度や二度ではない。やがて上流に大きなダムができて、 そんなこともなくなったようだが、今回それも対応能力を越えてしまったということなのだろう。瀬戸内海に注ぐ少し手前で生まれ育ったのだが、 この川はあの坂本龍馬の脱藩経路だったという記録もある。今は離れた場所で、無責任なことは言えないが、 とにかく一日も早い元の穏やかな日々が戻ることを願うばかりだ。<K>
40年ほども昔になるが、『ハリケーン』(1979・米、ヤン・トロエル監督)なる珍妙な(?)映画があった。ミア・ファローにジェースン・ロバーズ、
ティモシー・ボトムズなど名優といっていいようなそれなりの演者を揃えて(もしかするとキャスティングと特撮でほぼ経済的な問題も含めて“力”
をつかい果たしてしまったのかもしれない)、「嵐がやってきて、根こそぎあらゆるものを持ち去った後、崇高なる(?)愛(安っぽい恋愛事にしか思えなかったが、
当時は・・・)がしかと残って、輝きを放った」という、手短にいうと(端折り過ぎだが)そういう作品だった。
後に残されるのは、現実として無力感と絶望感、そしてところかまわぬ瓦礫の山、停電、特に後を引くのが断水。そうした生活インフラが復旧するにつれ、
少しずつ安心と微かな希望が見えてくることになる。ところが、有償無償の別なく、支援を待つ側の辛抱とイライラ、そして送る側の無知、
需要と供給のバランスをとるのは難しいことだが、それでもそれなりの配慮は欠かせないだろう。例えば明細を添えず、やみくもに“支援物資”
なるものを送り届けようとするのはむしろ、現地にとっては厄介ごとでしかないのかもしれない、時間がたてばなおさらである。「現金が一番ありがたい」
と言われてしまうと、なんとなく切なくもなるが、場合によってはその通りだということもよくわかる。<K>
台風に翻弄された夏だった…“だった”といいたいところだが、これがなかなか往かない、
九月になれば台風一過によって爽やかな空気が北から入り込んで秋の到来を告げる…はずが、南からなおも熱気を呼び込み続け、相変わらずの暑さである。
突然夏になったように、秋を飛び越していきなり冬になってしまうのかもしれないが、“わび”も“さび”もあったものではない、秋の夜長に何想う…
という期間も日本人としてはどうしても欲しいところだが、望むべくも無いのだろうか?
わが西方の故郷でも、幾度も『避難指示(勧告やらいろいろ)』が発令されて、老母が生まれて初めて小学校の体育館に避難したという、
遠く離れてまことに心苦しいが、親類または地元のご近所様方に少なからずご厄介をかけたかもしれないことに只管感謝するばかりだ。次回帰省の折には、お叱り、
苦言をいただくことも覚悟して、とにかくお礼とお詫びをお伝えしようと思っている。全てが異例で異常な夏だった、いやこの夏である。<K>
“沈下橋”というのは決して高知は四万十川の“情緒”を演出するための専売特許ではない、四国の瀬戸内海側にあるわが故郷にもかつてあった。 いまは新しい立派な橋に架けかえられたと遅れて故郷を出た弟より随分以前に報せを受けた記憶があるが、欄干のない、高所恐怖症気味の身としては、 いささか恐ろしいその在り様は今思い起こしてもなんとなくぞわぞわする。それが集落のほぼ始まりと終わりの大川の2か所に架かっていた。 上流にダムができてあまり意味をなさなくなったわけだが、それまでは確かに流れに逆らわず、流れ下るものをうまくやり過ごして、翌日には、まさに台風一過、 何事もなかったかのようにあり続けていた。先の台風では、それまで穏やかな地として大きな災害とは無縁の地であったものの、深刻な被害を受け、 架け替えられた橋に異状はなかったか心配なところだ。ニュース報道以外に確かめることをしていないが、大事ないことを祈るばかりだ。<K>
深刻ではなかったが、けっして軽いものでもなかった。今年の台風は各地に大きな被害をもたらしたが、我が実家でも、
裏山が一部崩れ落ちて土砂が家屋に迫り、2か月を過ぎた今でもそのままになっていた。目の前の、
いつもは小川と言った方が相応しい河川もいたるところに傷みがあって、なお復旧の工事が続けられていた。
川向こうの竹藪は相変わらず風に揺られて何事もないが、斜めになっても必死にしがみつく樹木は数知れず見られた。
この地では、紅葉にはまだ少し早いが、とにかくこのまま冬になってしまいそうなくらいにエネルギーを感じない、ただただ時の過ぎるのをじっと待つ…
といった雰囲気に包まれていた。
被災の現実に目を瞑ることはできないが、いっそ一気に冬になって欲しいという思いもあり、気分をリセットして、次の春を待つことにしたい、
というのはあまりに無責任か。
さてこれから、15分ほど歩いて、墓参りに行く。<K>
ヒトがまだ猿だった頃、黒石板(モノリス)に気づいた一群の中のある“者”がそっと手を伸ばして触ってみた(この最初に触れるという行為が重要で、
これが米ソいずれであるのかということにもつながっていたのかもしれない)。こうして“神の啓示”を享けた猿は“只者”ではなくなったわけだが、
かれが動物の骨を道具として他の群れとの争いを牛耳ることになる、
歓喜の中で中空に放り上げた道具としての骨がやがて宇宙船に姿を変えて月への中継点である国際宇宙ステーションに向かう、そこで流れるのが『美しき青きドナウ』、見事な効果を得たと思う。
ジャンルでいうとこのSFというのはあまり好みではないのだが、好きな映画タイトルは?と問われれば、この『2001年宇宙の旅』と
『サイレントランニング』(1972/米/ダグラス・トランブル監督)を割合上位で?早いうちに思いつく。さて『2001年…』、謎というか、
解答を示さないままこの映画は終ってしまう。その“解答”は後に製作された『2010年』という作品の中で示されることになるが、そもそも“神の啓示”
のおはなしで、腑に落ちる結末などというものはむしろあってはならないことなのかもしれない。故に、人間対『HAL(コンピュータ)』
の壮絶な戦いなどというものでもありえないし、そういったものをストーリのベースにこそすれ、
テーマはそれを超越してこそのキューブリック作品といえるのだろう。アポロが月に人間を運ぶ1年前の作品に、今もなお驚異と畏れを覚えるのみである。<K>
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