世の中騒然としている、いや、ただただ騒々しいだけなのかもしれない。もしかすると、目立っては拙い本当に困ったことを、細々した不愉快な事や、
少しばかり明るめの話題で、誰かが誤魔化そうとしているのかもしれない。この“目くらまし”結構効果があって、世間は当座こそ大騒ぎをするのだが、時間の経過をもって、
なんだか面倒臭くなり、やがて忘れてしまう、というよりどうでもよくなってしまう…それこそを待っているやからがきっと居るはずなのだ、どこかに…あの辺りに…。
インフルエンザがこれまでのペースをはるかに超えて流行している、ところで『豚コレラ』はどうした?『IR』が揺れている、さて、『桜問題』は散ったのか、
すでに関心は次の開花に移ったのか?高校野球の『100球問題』が地方の“弱小”のチームのはるかな夢をさらに遠いものにしている印象がある、さて、『野球留学』
の問題はどこへいったのか?事を整理してそれぞれ慎重に検討、評価、そして対応したいが、整理してくれるはずの機関がこれまた混乱していて、
何をどう受け取っていいのか、当然受ける側も混乱してしまう。せめて、予断を入れずに事実をなるべくシンプルなかたちで表に出して欲しいところだ。<K>
友達が偉くなったら、“俄か知り合い”ではなく、ここは“親友面”して当たり前のように近づき、あれこれと“世話になる”、浅ましい事とは思うが、
一方で人情事といえなくもない(いやな話だが…)。友達が偉い(権力の中枢、もしくはその近くにある)間こそ、一歩も二歩も退き、
むしろある程度の距離をもつくらいで初めて“友達”といえるのではないか、と常々思っている。
見返りを期待しての応援はあくまでも取引であって、それはそれで否定はしないが、そこに友情はあってもなくてもよろしい、かといって何も求めない(勝手)
支援というのも、なんだか薄気味悪く、一つ間違うと押し付け、ありがた迷惑にもなりかねない。この辺りはバランスが肝要だが、実に難しいところだ。したがって、
無難という事を考えれば、とにかく必要以上に近づかない事に尽きよう。あえて断固拒否・拒絶することもないだろうが、10年、20年会わずとも友達は友達、
なにもしないならまだしも、友達だから何かをしてあげたり、してもらったりするというのは決して自然なこととはいえない、つながっている事と、擦り寄ったり、
囲い込んだりする事とは別物であると思っていたい。<K>
本来責任のある発言である筈なのに、あるものは心に響かず、混乱の火にただただ油を注ぐのみで、何の実効も見られない。それなのに、悪意があろうとなかろうと、 出どころがはっきりしない(はっきりしないからこそ?)デマ一件が世の不安を煽り、とにかく大騒ぎに陥れてしまう。馬鹿馬鹿しいだけに余計に腹立たしくもあり、 少なからず不安にかられ、かつ実際の暮らしに影響を受けてしまうことが情けなくもあり、とにかく納得がいかない。この国は、こんなことでうろたえるなんて、何が “安全保障”だ?!と言いたくもなる。責任ある立場が危機管理を怠り、それでもなお既得権にこだわるなどおよそ文明国であろうはずもない…とむなしく天を仰ぎ、 不満と不信を募らせるのも切ないが、かといって山積みの商品を見て安心してしまう(させられてしまう)のも、人としてどうかと思う。何を、 どういった状況をベースとして“普通の日常”とするか、物事“腹八分目”、“良い時もあれば悪い時も…” なんて呑気なことを言っていると置いてけぼりにされる恐怖にただうろたえるばかりだが、安心安全な時にこそ、よくよく準備しておけばよかろうものを、 それでも今の状況を忘れず、できるだけ長く強く意識の中に置いておきたいものだ。<K>
何もかもが、その必要もない層に対するプレッシャーでしかない。行儀の良くない者たちには何も届かない。それでも、じっとしていろ!と言われれば、
“何事にも穏健派”としては、おとなしくそれに従いもしよう。しかし、馬鹿にしてはいけない、これだけしてやっておけば文句はないだろうなどという見え透いた“冗談”
には笑えもせず、つき合いたくない。今何をすべきか、わかってはいるが、あなたの言うとおりにはしたくないと眉を顰めたくもなる、
そのあたりを多少なりともわかってくれていれば、また対応も変わるものを…
“世代間戦争”ということにでもしたいのかとうがってしまうが、誰が争いなどしたいものか、ウィルスとさえ、対抗策(対応策)を考え、
探ることでうまくつき合えるのではないかと思っている。圧力というものは、そもそも行儀の悪いものに対してなされるものであって、いつもそうだが、本来善良で、
割合行儀のよい者にとってのプレッシャーにしかならない、“やるやつはやる…”のだ。とはいえ、彼らを取り締まって留飲をさげるというのもどうかと思うし、
解決策にはならないだろう。
できれば(なるべく)家に居た方がわが身の安寧のため、ひいては“世のため人のため”だと言い聞かせ、気分は決して閉じこもらず、さりとて行動としては緩まず、
ここでもバランスの取れた施策、反応が望まれる。要するに、過激、過剰ではない本来の意味での“要請”と“反応”に基づいた暮らし、それでよろしいのではないかと思う。<K>
必要なものは、出し惜しみの高慢ちきで一向に行き渡らず、むしろ個人的には“不要・不急”のものが“給付”されるという。この時点ですでに有難みもないが、
それがなんと不良品で配布休止、回収のドタバタ劇、さらに出所不明(不審)で突っ込みどころ満載のものになってしまった。それが“下賜品”であるところの滑稽さと、
不平を許さない“上からの施し”に、かえって悪評の量は倍加することになる。
金を出してでも欲しいものは欲しいし、それが失敗の買い物であっても、責任は我にありと、諦めもつく。ところがタダで呉れるものについては、
文句を言えないから余計に腹が立つ。表に出せないから一層陰に籠る、そして堆積して、やがて崩れ落ちる。
何につけ、体制が崩壊することが恐ろしいとおっしゃる、しかし、それは騒ぎ以前の体制がしっかりしていて、
それが何かの事情でうまく稼働しなくなることをいうのだろうが、そもそもできあがってもない体制、
無理を承知でまわっていたことの無理が祟って二進も三進もいかなくなる、これは“崩壊”ではなく、いうところの無駄を削ぎ落して、
すべてが余力なく動かされていたことの結末ではないのか、崩壊とは完成度(その度合いにもよるが…)の高かったものが文字通り崩れ落ちることだ、
なるべくしてなった現状の言い訳にすぎないと言いたい。<K>
誰もが危ない、或いは不安な思いを抱きながらの暮らしを強いられている、そうせざるを得ない状況にある。それぞれの立場に在る者がご都合主義の判断なり、 指示(強制を伴わないが、決して“お願い”などといった生温いものではないはず…)が続いて、ただただ振り回され、右往左往(現実にはその場を動くな!という)して、 過剰なストレスを背負わされる。善良なる者は素直に従い、それに従わない者は、反骨者か、もしくは“病人”ということになろうか。上からは「おとなしく、 言う事が聞けないか?!」、下からは「それならそれでちゃんとしろ!」みんなギリギリの線で生きている(ギリギリの状況を演出されているのかもしれない)、 いずれにしてもバランスが取れているとはとても言えない。“火事場泥棒”に“給付金詐欺”、“休業勧告無視(拒否)”、“ギャンブル依存症の大行列映像”、 “バイキンの巣呼ばわり”と不要のストレスは募るばかりである。<K>
「人が死ぬまで、動かないのか!」それでも動けばまだ救われる。死人が出ても、それにさえ麻痺してしまったか、なお表情一つ変えずただただ嘯く厚顔無恥は、
もはや人ではない、亡者の集まりだ。人任せに責任の擦り付け合い、あらゆる場面がとにかく真っ当でなくなってしまっている。
真っ当であろうとすると、どうしたわけか声が消え入りそうなほど小さくなり、やがて声どころかその姿さえ霞んでみえなくなってしまう。声も届かず姿も見えず、
これでは弱いもの、お友達でないものがさらに疎外され、忘れ去られてしまう事になりはしないか、これもまた“瀬戸際”といえるのではないだろうか。
押さえつけることと、聞こえないふりをする、もっとひどいのはいつの間にかなかったことにしてしまう狡猾さ、これらの対応は、どれも深い遺恨を残したまま時間だけを消費するのみである。いずれも解決どころか、事において何の進展もない。言うにも虚しいが、今起きている事、それに直接関わる者たちの様子を決して忘れてはならない。<K>
家に居ろ!と言ったり、小遣いやるから旅行しろ!と言ったり、はたまたお盆の帰省はとめないが、家族でよくよく考えて決めろ!とか、 ああせえこうせえと何かと指示のようなものを出してくるくせに、とどのつまり責任取れないから、自分のことは各自で判断しなさい!ときた。個人責任は当然だが、 それでおさまらないから世の中騒然としているわけで、ここにきて、「国におねがいする」、「具体的には自治体の仕事」、だの、「厚労省の役目じゃない」、 「経産省にその件に関して言及する立場にない」といった、「行政の縦割り」なんてことを持ち出されても、国民の側としては対応のしようがないだろう。 「いっそ『じっとしていろ』とでも言ってくれ!」なんて声も聞こえてくるが、これだけは絶対に言ってはならない、誰かが言うのを許してもいけない。 揃いもそろってみんなが責任を回避してどうする?!<K>
何が何でも“既得権”を保持したい人たちには、何かこだわりよりもより粘着力の強い執念のような雰囲気を感じさせる。
残念ながら、そのひと世代、ふた世代下の人たちの声はあまりにか細く弱い、ちょっと“アメ”或いは“ムチ”を目の当たりにすると総崩れの腰砕け、
なんともなさけないことである。両者の決定的な違いは、現有の力関係及び良し悪しは別として、覚悟のあるなしのような印象をもつ。
普段(たとえ有事と言われる状況下にあっても)はほとんどその姿を(少なくとも昼間には)見ない“ベテラン”たちが俄かに活気を見せ、やたらと表に出てきて動き回る、
みっともないくらいに…いかにも愉しくてしょうがないといった趣だ。この時局こそ、表に裏に蠢くことが“本懐”とばかりに、権力(利権)のやり取りに躍起となっている
(としか思えない)。悲喜こもごもというより、伝える媒体をも含めてどこの誰を見て、何を信じるか、または基準にして物事を捉え対応を図るべきか、
評価と判断が出来ない。決して諦めてはならないが、“呆れて物も言えない”今日この頃ではある。<K>
通勤路を変える、電車の乗り口を変える、これすらもある程度の決断力を要するものだ。まして、通勤しない(に及ばず)…などとなると、“革命的”
変化であるはずなのだが、これが外からの圧力、つまりそういう指令・命令ということになると、人はやむを得ず従う、というより安心して変化に甘んじる、
むしろ喜んで変化を受け入れる場合もあるだろう。
現代人はそれくらい、自分の意志で動くということをしたがらない、いっそ嫌がる傾向にあるのではないか。
これも誰かの差し金なのかもしれないが、どこか、議論を避け、決断を人任せにして責任回避に努める風潮は、いかにも健全とはいえない。“従順”
は美徳などであるはずもなく、場合によってははた迷惑で、ましてやこれを“個性”、“自由”だなどでは決してあり得ない。ここで「間違っている」
と声高に訴えるのもどこかむなしくもあり、言い立てる方としても腰砕けしてしまう。<K>
例えば、100人に何か意見なり判断をとろうとして、それが二者択一だとして、「A」が40人、「B」が30人、確かに“大勢”は「A」ということになる。
がしかし、それで「A」を“採用”ということでよろしいのだろうか。問題はそのどちらでもない残りの30人たる「棄権票」である。「A」
を選択した人々にとって、「棄権」は消極的「A」支持、「B」を選択した人々にとって「棄権」は逆に消極的「B」支持として、
それぞれが主張するとどうなるか?もしかすると、その“声の大きさ”によって、結果、結論は変わってしまうのでは、変えられてしまうのではないか、
これでは民主主義下での多数決という事を言い訳にした“勝手放題”がまかり通ってしまうおそれがありやなしや?!つまり、どちらでもない
(どちらでもいい)“グループ”が決定権を握ってしまうような気がしてならない。
無論、二者択一の判断を求められることに違和感を感じての“棄権”ということもあるだろうが、これはごく一部のような“気”もする。“声の大きい”
ひとにとっては、なるべく参加しないで“寝ていてくれたほうがありがたい”場合もあるかもしれない(そんなことを言った政治家がかつていたような…)。
すべては“事と次第による”ことではあるが、“参加しない人々”からも、何らかのかたちでそれなりの意見を引き出す必要があろうかと思う、何故なら、
積極的参加意識があろうがなかろうが、“重さ”からいえば同じ『一票』なのである。<K>
正当な発言とみるか、往生際が悪いと評するべきか、彼の国のことゆえあずかり知らぬお節介かもしれない(とも言い切れない…)が、平和・平穏
(安心・安全といってもいいだろう)を守るために争い、争いが起これば、究極のところ話し合いなどとは生ぬるい話で大きな声、力がその展開、
解決にかかっていると言わざるを得ない。
生ぬるい対応で事が足りればそれに越したことはない、いや、そこでむしろ踏ん張るべきだ。“力”
の行使はコントロールにとどまらず時を置かず暴力につながることになりかねない、早晩そうなるだろう。そして声の大きなものは、
その持っているおもちゃもしくは道具(要するに武器)を使ってみたくなるのだ。自衛のための備えというのは所詮建前で、“抜かずの宝刀”
などとは誤魔化しである。事情はおそらく別の所にあるのだろうが、「駄目なものはだめ」、「悪あがきは遺恨の元」として「諦めが肝心」と誰か言ってあげよう
(あくまでも言葉で…)、人間引き際は綺麗にしたいものだ。<K>
<K>