こんな駅におりてみた...
00 伊予白滝駅 01 奈良駅
02 湯田温泉駅
03 長野駅
04 琴平駅
05 城崎駅
06 松本駅
07 日立駅
08 高崎駅
09 別府駅
10 釧路駅
11 道後温泉駅
12 天橋立駅
13 高知駅
14 峰山駅
15 新宮駅
16 水上駅
17 小樽駅
18 山形駅
19 仙台駅
20 秋田駅
雌瀧と雄瀧の落合の瀧 追想
春は桜に秋は紅葉の白い滝。雌瀧と雌瀧が落ち合う先に、その名も伊予白滝駅。
駅から徒歩五分で、滝山の入り口の水車小屋が現れて、はったい粉をひいてもらった水車も、当時既に木製から鉄製になっていた。
『駅から五分』というのをお偉いさんは信じてくれず、じゃあ見に来てくれと頼んで二年、漸くの“視察”のあとの秋から、日曜と祭日に“準急”
の何本かが停まることになった。
やがて、何か目を引く物が欲しいと、僅かばかりの予算がついて、十歳になった息子と二人で、ホーム中ほどに、
それまでなんだかわからない記念碑みたいなものがあった場所に池をつくり、大川から二人で担いで運んできた石を積み、裏にホースを這わせて、即席の“滝”を拵えた。
そこに、息子が滝川で釣ってきた赤鮠(あかはや)を放したものだが、地味で、それでも餌をやる必要もある、面倒なことになってしまった。 [2015]
奈良駅(奈良県/JR奈良線)
ターミナルはローマ・テルミニ駅がその語源といわれ、懐かしい映画『終着駅』がそのイメージを定着させました。しかしネットワークの拡充につれて
〔住む〕場所から〔職〕の場に至る中継点、つまり目的地を目指すためのアクセスポイントという意味合いが強くなったようです。したがって、
社会的・経済的要因が強くなった分、駅が日々の暮らしにとってどうしても省略できないスポットとなって、そこにはさまざまな機能が用意されることになりました。
とりわけ鉄道がよく発達したヨーロッパの国々では、駅の機能は重要で、そこから街が始まるといっても過言ではありません。
大きな駅には暮らしにかかわるすべての機能が備わっています。たとえば病院、銀行、郵便局、ホテルから床屋、果ては風呂まで駅舎内に持つことさえあって、
衣食住の基本、まさに街づくりの出発点です。そこを通り過ぎる度に、なぜかほっとする時間と空間を駅は提供してくれます。
さて第一回目は、はじまりといえば国づくりのはじまりJR奈良駅。国のはじまりに相応しい街づくりのコンセプトが駅舎に生かされています。デザインは、
まさに駅名表示が不要なくらいに『奈良』そのものです。奈良観光の定番といえば、興福寺・五重塔、東大寺・大仏殿、春日大社、そして若草山ということになりますが、
何よりもまず奈良というイメージが最初にあって、それに合わせて駅舎がデザインされたのでしょう。屋根の中心に立つ宝珠、水煙、
九輪で飾られた〔相輪(そうりん)〕が全てを物語っています。訪れる人にとっては、旅情を満たしてくれて、一方、ここに暮らす人々にとっては、
それはまさにアイデンティティのシンボルとして、つまり奈良の奈良たるイメージを再確認させてくれるわけです、まさに駅は街の顔です。
駅舎前のロータリーは小規模ながらあるにはあるのですが、市内バスの発着所も含めて極力駅舎から離して、車をそばに寄せつけない工夫が施されています。
あくまでもイメージを大切にする姿勢は好感が持てます。
[1992]
湯田温泉駅(山口県/JR山口線)
何の変哲もないローカル線の駅のようですが、その隣で駅舎を見下ろす大きな白い狐像、これはいったい…
ここは、山陽新幹線の小郡駅からJR山口線(毎日曜日にはSLが走ります)に乗り換えて、山口駅の一つ手前にある『湯田温泉駅』です。
山口市は全国の県庁所在地のうちで最も人口の少ないところだそうです(当時、約12万人)。観光としてはここから更に北に上った津和野(但しここは島根県)、萩、
秋芳洞・秋吉台が有名で、経済的には逆に下関、小郡、防府、徳山といった山陽道沿いの街がその中心ですが、明治維新以来内陸で盆地である山口は〔西の京〕として政治・
文化の主要な舞台でした。地形的にも共通点が多く、しかも京の都を模して街造りがなされたというだけあって、静かな中にもどことなく上品な雰囲気が漂います。
八坂神社に瑠璃光寺五重塔とまさに京都です。その西の京に付随するように続く温泉街が湯田温泉です。さて先ほどの狐ですが、昔、昔のはなし、
この地に棲む白狐が湧き出る温泉を見つけたという伝説によるものです。この温泉は八百年来の三陽路の名湯として有名で、多くの旅館、
ホテルが立ち並び湯の町の情緒を醸し出しています。それにしても高さ10メートルはあろうかというこの大きな狐の像、傍らには噴水のかわりといいますか、
当然のように湯がこんこんと湧き出ていて、その物語を視覚化しているというわけです。この駅、観光地ということもあって特急が停車します(といっても3両編成)。
しかし単線で以前はこの駅で列車が離合していたのでしょう、ホームは確かに2本あるのですが、2番ホームはすでにレールはありません。その跡がむなしく残ります。
しかし駅舎も大白狐像も建てられてから、或いは改装されてから間がない様子で、再生の意気込みを感じます。こうしたいわゆる生活感のない温泉町の玄関としての駅は、
文字通り観光客の来訪が頼みの綱ですが、昨今の団体客はバスを使うことが普通で、駅は寂れる一方だったのでしょう。
それが昔話をもう一度引っ張り出して活性化しようとする〔村おこし〕の一環とでもいうことができるこの大きな白狐、霊験あらたかたらんことを祈ります。
[1992]
長野駅(JR信越線)
なにはともあれ横川駅のホームを必死に走って、やっと手に入れた駅弁のスーパースター『峠の釜めし』をたいらげます。列車を山また山を巡り、
トンネルまたトンネルを抜けて、盆地に入りやっと一心地、いよいよ長野です。
長野といえば、もちろん善光寺です。奈良駅と同様仏閣型建築の駅舎、昭和10年の竣工といいますからこちらの方が格段に歴史がある、つまり古いというわけです。
そしてモチーフは善光寺の本堂です。いささか肩身が狭い風情で気の毒な感じもしますが、旅人の身勝手をお許し願えるならば、
押し寄せる無機質のビルなどに負けることなく、ずっとこのままでいてほしいそんな〔かたち〕の駅です。この地にとって善光寺の存在ははかりしれない大きさで、
その文化と歴史に深く関わっていることが、表玄関すなわち駅の姿でわかります。宗派にこだわらない善光寺信仰が全国に広まり、以来多くの参詣者が訪れ、門前に町が開け、
時が下ってついにその入り口に鉄道ができる、駅が善光寺そのものであっても不思議はなく、このデザインもまったくもって自然のことです。
川中島古戦場に真田屋敷と史跡はありますが、ここではあくまでも善光寺、「現在の本堂は元禄16年から宝永4年(1727)にかけて建造され、
〔しゅもく造り〕というT字型の構造になっており善光寺独特の建築様式です」(本堂前の説明用の立て看板より抜粋)。それにしても、
ここまで生真面目に模してしまうとは、竣工当時の市民の意気込みがうかがえます。こうしてみますと、歴史のある街というのは、語り伝えることにとりわけ熱心で、
しかも相当に巧みであったということなのかもしれません。参考までに説明看板に戻りますと、「本堂の高さは29・98m、間口25.9m、奥行58.45m、
建坪431坪で、桧皮葺(ひわだぶき)用材は主に桂材」ということです。もちろん駅舎の方にこの貫禄はありませんが、雰囲気だけは十分に再現しています。
これもまた長野以外の何物でもない、立派な街のアイデンティティとなっています。惜しむらくは、構内が雑然としており、
諸々の施設の配置も決して機能的とはいえない状況で、旅人は戸惑います。 [1992]
琴平駅(香川県/JR土讃線)
こんぴら、船、船…というわけで、JR琴平駅です。大正時代に建てられたという駅舎は北欧風、ところが駅前の広場に並ぶ大小の石灯籠、
このなんたるアンバランス、これを〔美しいコントラスト〕と言い切ってしまう観光案内に置かれたパンフレットのセンスには脱帽です。
駅舎横には小規模ながら鉄道博物館があって、SLの動輪などが展示されています。ここは讃岐鉄道発祥の地なのです。
駅舎が北欧風である由縁はともかく、やはりここは海の守護神として全国に知られる金刀比羅宮の門前町、〔さぬきの金毘羅さん〕の駅です。
あくまでも灯篭が主役であります。町中にはいたるところに灯篭やら古い橋、文化遺産で溢れんばかりです。駅前から五分も歩きますと、
早くもあのあまりに有名な石段が現れます。これぞ金毘羅名物一三六八段の石段、登れど登れど石段は果てしなく続きます。造り酒屋に、いかにも古い旅館、茶店に土産物屋と独特の風情ですが、それに浸るゆとりもなく、膝が笑う、汗が出る。額の汗を拭き拭き黙々と登り続けますが、急勾配の先に目指す御本宮はなかなか見えてはきません。大門から賢木門、そしてようやく絵馬堂と御本宮に到着です。そこから見える讃岐富士が、全国のなんとか富士といわれるもののうちでも最も本物の富士山に似ているといいますが、それを言うのは地元のガイドでもあり、言うほどにあてになるものかどうか定かではありません。その向こうに見えるはずの瀬戸大橋で、高知方面からはこの琴平を経由し、瀬戸内沿いを走る予讃線と多度津駅で合流して海を渡ります。かつては連絡船を利用せざるを得なかった四国の人々にとっては、まさに夢の架け橋であります。
ここには、私鉄の高松琴平電鉄線の琴平駅もあって、高松方面からは一時間ほどで、しかも30分に1本運行されていますから、こちらの方がはるかに便利です。
新しい駅舎は瓦屋根で、当然にように金刀比羅宮がモチーフです。灯篭を模した駅名標が目を引きます。
とにかく、全国的に知れ渡った名所を持つ駅は得です。駅舎造りのコンセプトを改めて頭悩ませて考えることがないのですから。 [1992]
城崎駅(兵庫県/JR山陰本線)
「大昔、傷ついたこうのとりが、この里の田の中に足をつけて、いつの間にか元気になったことにより、
初めて里人が田の中に湯が涌くことを発見しました。これが城崎の湯のはじまりと言われております」(駅前にあるモニュメントの説明板より)、
1500年の歴史をもつ城崎温泉は外湯、つまり複数の共同浴場を中心に栄えてきました。開運とか子授けとか不老長寿とか、それぞれが守護神を持っていて、
願いに合わせて巡るわけです。
ちなみに共同浴場の番付というものがありまして、東西の横綱に湯田中(長野県)と道後(愛媛県)、同じく大関が鳴子(宮城県)と城崎(兵庫県)、
関脇には野沢(長野県)と山中(石川県)、小結には那須湯本(栃木県)と別府(大分県)ということになっておりました。と言ってもこの番付表、
道後温泉の大広間にあったもので、正当な評価なのかどうかは責任が持てません(それにしては東ではなく、
自らを西の横綱としているのは控え目で好感がもてるではありませんか)。
さて城崎駅、駅前ロータリーの中心にこうのとりの像と噴水、そして花壇、温泉をイメージして、そこにその謂れまで紹介してしまう、ありきたりの手法ではありますが、
まあこれ以外にはないでしょう。そういえばかつて訪れた山口県の『湯田温泉駅』でも、源泉発見の伝説上の〔功労者〕である白い狐が主役でした。
駅舎は文学の町とも言われるだけあって、改装して間がないようですが、あくまでも古風に、確証はありませんが、木造時代の駅舎を忠実に再現したのではないでしょうか。
ここから進路を西へ変えて先へ進みますと、鉄橋で有名な余部(あまるべ)、鳥取、倉吉、米子、そして出雲へと続きます。南に下がりますと、
福知山辺りで一旦京都府に入り、すぐに兵庫県に戻って三田、宝塚、そして大阪を目指すことになります。 [1992]
松本駅(長野県/JR中央線)
東京・新宿駅を10時ちょうどに発車した『特急あずさ9号』は中央線をひた走り、三時間弱で松本駅に到着します。
参考までにこのあとあずさ9号はここから大糸線に入り、終着の南小谷(みなみおたり)を目指します。時刻表の地図を見ますと、
その次の「中土」という駅からはJR西日本の線区ということになります。
駅前ロータリーの一角に時計台、周囲にその存在の謂れは見当たりませんが、ただの時計というより、これはもう立派なモニュメントであります。
文字盤にあったロゴマークを見てすっかり納得です。ここは諏訪湖に近く、つまり某大手時計メーカーの拠点なのです。モニュメントどころか、パブリシティ、看板でした。
広い松本盆地の、大きな壁のような北アルプスが間近に迫る一角に工業団地が整備中で、六年後の冬季オリンピック開催も長野に決まり、
この辺りも元気いっぱいの雰囲気です。北信の長野市近辺に文化面を委ね、この松本市界隈は経済の拠点を目指す意気込みを感じます。
しかしながら、この元気いささか空回りの印象を拭えません。駅舎に限って言えば、増改築の真っ最中、派手な駅ビルの完成(見たくないような気もしますが…)
も近いようで工事の騒音もけたたましく、急ピッチで進んでいるようです。時計の他は、既に特徴のない駅になってしまって面白味もなく、
多少取ってつけたようなところがあっても折角の北アルプス、これをイメージさせるものがあっても良いのではと思うのは、
この先再び訪れる確証のない旅人の勝手な感傷かもしれません。それでも野麦、善光寺、糸魚川のいかにも郷愁を誘う名の街道が集まる昔からの交通の要衝でもあり、
ここには本物の北アルプスがある、もうちょっと何とかならないものでしょうか。そのかわりに東京の新宿駅にアルプス広場がある、それで良いのかもしれませんが、
残念な気もします。
半ば意地になって辺りを探しまわりますと、郵便ポストの上にありました。ミニチュアの松本城、これぞまさしく松本ですが、色が黒くって目立たないのは当然としても、
慎ましいのもここまでくるとほとんど何の意味もありません。 [1992]
日立駅(茨城県/JR常磐線)
だいぶんくたびれてもおり、たいして特徴もない駅です。もしかすると貨物線としての歴史の方が濃いのかもしれません。
線路の番線の数の割りに乗降用のホームが少なく、スペースも狭いようです。人より物の方が余程大事だったように見受けられます。
番線の数からは想像もできない中央改札口からホームまでの通路の長さ、とにかく歩かされます。それもそのはずで、ここは某大手企業の拠点なのです。
駅名標よりもしっかりと目立っている企業の看板は、この駅の場合単なる宣伝のための看板ではなくて、むしろもう一つの表札といった性格をもっています。
全国にはこうした企業の拠点といいます〔故郷〕といいますか、そんな駅が結構あります。例えば東京・JR山手線には某ビール会社の表玄関みたいな『恵比寿』
なんて駅もありますし、また駅名よりも、改札口の前に正門がある企業名の方が馴染み深いなどというところは、探せば他にもたくさんあります。
さて『日立駅』」、駅舎はくたびれておりますが、中央口駅前のロータリーを挟んで、周囲の状況はただごとではありません。
反対側の海岸口というのはすぐに海ということもあって、埋め立てでもしないかぎり開発のしようもありませんが、こちら側はまるで〔駅前再開発〕のモデル、
高いビルこそありませんが、計画段階の模型のようです。竣工なったばかりのという多目的ホール(シビックセンター)とりわけ異彩を放っていて、
そのプラネタリウムの全くの球形が目を引きます。巨大ともいえる駐車ビルを従えた大手スーパーに、建築中のホテル等々、一時期にまとめて整地して図面通りに造り上げた、
そんな感じがします。
聞けばこの駅舎にも改築の計画があるそうで、さぞかし凝ったデザインの建物になることでしょう。特にモチーフにすべき名所もないのであれば、
それも良いのかもしれません。少々目立つぐらいに変わった建物でないと周囲に負けてしまうかもしれません。
ちなみに日立電鉄線というのは、なぜかこの駅ではなく、二駅上野寄りの『大甕(おおみか)駅』で接続しています。 [1992]
JR高崎駅(群馬県/JR上越、信越線他)
新幹線で東京から僅かに1時間、高崎駅は、少なくとも時間的にはすっかり首都圏というよりむしろ通勤圏というべきでしょう。
何でも東京を中心に考えるのは、そこに居ながらもいささかの疑問を持つことを禁じえませんが、そういうことの議論ははまた別の機会の事として、北への玄関口が大宮なら、
ここ高崎は新潟へ、そして長野方面へのターミナルとなっています。春のダイヤ改正に伴い現在のキャンペーンも、長岡駅で『上越新幹線』から『特急かがやき』
に乗り継いで金沢まで4時間弱というもの、その機能としての存在感もこの先一層重みのあるものになることでしょう(これも『北陸新幹線』開通までのことでしたけれど…)。
なにしろ東京(上野)から金沢までは寝台特急(深夜に発車して、早朝に到着する『寝台特急北陸』はいささか寝台列車としては役不足の距離と言わざるを得ませんが)
が走る区間なのですが、それが一気に縮む印象を受けます。そのインパクトは東海道新幹線『のぞみ』増発・走行区間延長で東京と岡山や広島への所要時間が何分か短縮されるというものよりも遥かに大きいものがあるのでしょう。
さて明らかに改装成ったばかりとおぼしき駅ビルですが、どうして新しい駅舎というのはどこもかしこも見た目に同じなのでしょう。駅舎というイメージは既になく、
駅名標がなければデパートかオフィスビルです。さらにロータリーに蓋をしたような駅前の空中歩道、外に出て、ビル風に煽られて振り返った時、
一瞬先頃訪れた仙台駅かと思い違いするところでした。失礼ながら味もそっけもない…、駅前も再開発の真っ最中で、ついどうぞお好きなように!!
と嫌味の一つも言いたくなりますが、もちろん地元の事情もあって、通りすがりの者には軽々しく非難などできません。
“日本が縮む…”に際して、出張も日帰りが多くなるということで、駅に様々な機能を持たせるのは当然のこととして(中には、
どうしてこんなものがと不要としか思えないものもありますが)、日本中の“たーみなる”から昔ながらのどこか懐かしい“駅”らしさが消えて、
町の顔から単なる通過点に格下げされてしまうのは、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。必要性はともかくとして、新しい駅ビルにも、
駅前再開発という乾いたスローガンにも食傷気味と言わざるを得ません。 [1992]
別府駅(大分県/JR日豊本線)
九州は大分県の中央東部にある別府市、一年を通して観光客の絶えない、全国でも屈指の観光のメッカです。
中央口正面に真新しいブロンズ(?)の像、もうこれは全く説明を要しない…この駅にして、ご覧の通りの湯浴みをする女性の像であります。やはり日本最大の、
もしかすると世界一の温泉地の玄関口にはまさにふさわしい“表札”と言えるでしょう。別府にこれ以外のモニュメントは考えられないほどです。
ホームの駅名標にも温泉のマーク、像の周りで待機する観光案内の男性も、むしろ客引きです。
「別府」「浜脇」「観海寺」「掘田」「亀川」「柴石」「鉄輪(かんなわ)」「明礬(みょうばん)」の別府八湯を総じて別府温泉と言います。
“通”というと言い過ぎかもしれませんが、旅そのものをじっくりと楽しみたいという向きには、少々俗化され過ぎてしまったかもしれません。また、
最近では特に若者を中心として、映画祭や音楽祭など文化的イベントのおかげもあって、別府はあくまでも別府です。
別府といえば名物「地獄めぐり」、子供の頃に訪れた折の印象とは随分違っていて、血の池地獄、海地獄、竜巻地獄、坊主地獄と、どこもこけおどしの“観光施設”
でしかありませんが、後で、温泉に気持ちよくつかるための準備運動と思えば、汗して巡ってみるのも決して苦にはならないでしょう。
それぞれの出口にみやげ物販売のコーナーがあるのには閉口させられますが、それぞれが個人の所有物で組合組織で運営しているとあればそれもやむを得ないことかもしれません。
博多駅から鹿児島本線まわりで、途中久留米から久大本線に入り、3時間14分をかけて、、九州を横断するかたちで大分・別府に至る路線を話題の『ゆふいんの森号』
というイベント列車が走っていて、その名の通り日田盆地を抜けて由布岳の麓、由布院駅(隣の湯の平町と合併して湯布院となりましたが、駅名は今でも由布院)
で大方の乗客を降ろします。やがて、大分駅から日豊本線に入り、いよいよ終着別府駅に近づくにつれて見えてくる、
あの湯けむりの本数はやはりさすがと言わざるを得ないでしょう。 [1992]
釧路駅(北海道/JR根室本線)
たとえば、飛行機で東京を発つ時に摂氏30℃あった気温が、ここでは12度だったりすると、もう旅情などと生温いことは言っておれません。
羽田から1時間半、いきなりでは身体に悪い…
単なる移動で良ければ、準備さえ怠りなければ問題はありません。しかしやはり味わいが欲しいという向きには、徐々に移ろう窓外の景色とか、
各々の土地における人の流れといったものを感じ取るには鉄道が一番です。点と点でなく、つながった線上の移動ですから、周囲の状況に自分の意識が十分についていける、
つまりより奥深く愉しめるというわけです。
釧路湿原が海に至る所に在るこの街は、とにかく霧のたちこめる日が多いと聞きます。また北の地なればこそ、6月の末にストーブを焚いていたとて何の不思議もありません。
この地の人に言わせれば、「年に一度か二度、30℃を超える日がある、それがどうにも耐えられない」とのこと、旅人には理解できないここに根付く人たちの常識です。
釧路に対する勝手なイメージですが、市内に架かる幣舞橋(ぬさまいばし)はいつも霧に包まれていて、街全体がモノトーンの印象、白い建物に暗い海、
これはいつか見たスコットランドの風景に通じるところがあります。湿原に鶴がいて、カメラを提げてそおっと近づきます、もちろん決して鶴のお邪魔にならないように
(相当迷惑でしょうが…)。
この駅は二桁の氷点下になってもへこたれることはありません。南の地方では5ミリの積雪で列車が止まることもあるというのに、全国どこにでもありそうな駅ビルですが、
それでもどこか極限の厳しさにも屈しない強い意志を駅舎からもかんじられるといったら言い過ぎでしょうか。
ここから釧網本線で北へ向かうと標茶、摩周、知床の入り口の斜里、そして網走と駅名を並べるだけで旅情が漂います。駅ビルに向かって左てに大きな市場があります。
海産物に溢れてなかなかに楽しい所ではありますが、土産物売り場の印象は拭えませんでした。 [1992]
道後温泉駅(愛媛県/伊予鉄道)
『伊予鉄』といえば言わずと知れた「坊ちゃん列車」であります。松山の地を好意的に紹介しているかと言えばいささか疑問の残るところですが、
とにもかくにも夏目漱石のおかげをもって全国に知れ渡ったことだけは否定の余地のないところです。もちろんこれはあくまでも通称であって、
観光記念の乗車券の裏面にはこうあります。「明治21年8月ドイツミュンヘンのクラウス社から購入したもので、四国で最初の陸蒸気(おかじょうき)として松山〜三津間
(明治21年10月28日営業開始、6.8キロ所要時間28分)を初めて走り、昭和29年までの67年間走り続けました」
さて道後温泉駅、松山城を囲むように結ぶこちらの路線は懐かしい路面電車です。全国に今なお残る路面電車の中でも、比較的元気な印象を受けます。
経営は決して楽ではないのでしょうが、これも温泉という超目玉を持つ強みでしょうか。JR松山駅前の電車のりばから道後温泉行きに乗ってゴトゴトと約15分、もう終点です。
大手町、西堀端、南堀端、上一万…といういかにも城下町といった趣の停車場を一つ一つ丁寧にクリアして
(ちなみにこの路線とは城山を挟んで反対側を走る城北線には鉄砲町などというこれまた雰囲気のある駅もあります)道後温泉駅に到着、
そこがすなわち温泉場の玄関口というわけです。駅舎は明治44年8月電化に際して建てられていたのを、昭和61年5月、昔の姿のまま忠実に新築復元したものだそうです。
白鷺が発見したという伝説をもつ道後温泉、神話の時代からの温泉地は日本一古い温泉と言われています。みやげ物店が連なるアーケードを抜けたところにある『神の湯』、
大衆浴場になっていて地元の人、観光客の別なくのれんを分けます。入浴後は二階の大広間でお茶とお菓子のサービス(三階は個室の家族部屋になっていて、
ぞれぞれ入浴料金とは別に料金を払います)、明治、大正、昭和、平成とくれば、なんとなく“大正ロマン”と言ってしまいたい時を過ごします。
[1992]
天橋立駅(京都府/北近畿タンゴ鉄道)
見た目には、どこがどう「天橋立」なのかよくわかりませんが、とにかく最近改築成ってしゃれた駅舎になったという天橋立駅です。
ここはかつて西舞鶴駅と豊岡駅を結ぶJR宮津線と呼ばれていた区間のほぼ中央、これと隣りの宮津駅から福知山駅に向けて岐れる旧JR宮福線を合わせて、
新たに第三セクター方式による『北近畿タンゴ鉄道』として再出発しました。なにしろ観光のメッカを抱えているということもあって、
京都・大阪方面から直接乗り入れる特急列車も多く、「特急タンゴエクスプローラー」とか「特急エーデル丹後」といったスーパートレインと呼ばれる企画列車が観光客を運び、
人気も上々のようです。
日本三景といえば、松島に厳島(宮島)、そしてここ天橋立、駅舎を出て5分も歩けば、その入り口ともいうべき、跳ね上げ式でなく、
回転して船を通す何ともユニークで珍しい「廻旋橋」に出会います。これが決して観光用でなく、砂利船などがしきりに通過して、結構頻繁に開閉してくれますので、
面白くもあり、また生活の中でしっかり機能しているのが嬉しいところです。そこから先が海の回廊、向こう岸まで歩いて渡れます。そこからケーブルカーで傘松公園に上って、
誰もがとる行動がすなわち“股のぞき”、そして見えるのが天に架かる橋、「天橋立」というわけです。観光船で内海を渡るのも一興ですが、
ここは廻旋橋のすぐ先にある茶店で自転車を借りて、それで渡ってみたいと思います。先頃、駅側(徒歩5分、リフト使用)にも遊園地を持った展望台が完成して、
“股のぞき”ができるようになりました。
駅に備え付けのガイドマップには、日本三景の一つ、日本三文殊の一つ(文殊堂)、日本三名松百選の一つ日本名水百選の一つ、日本の道百選の一つと“一つ”
がたくさんありますが、要するに「天橋立」があくまでもメインであります。地図の駅のところに「町のへそ・起点」とあり、納得もし、大いに共感もしました。 [1992]
高知駅(高知県/JR土讃線)
見るからに南国の駅であります。駅舎自体に特徴がない分、駅前ロータリーに整然としかも迫力満点にそびえるパームツリーがイメージの文字通り柱となっています。
岡山から瀬戸大橋を渡り、金毘羅さまの琴平、秘境大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)を抜けて2時間半ほどで高知駅、
さらに西に進むと清流「四万十川」を過ぎて足摺岬のたもと中村駅(窪川以西は土佐くろしお鉄道)を目指します。
駅舎を背にしてロータリーの左端、歩道橋のたもとのバス発着場脇にある郵便ポストの上に寄り添う二体の人形(よく探さないと見つからない…)、
とって付けたようないかにも安での人形ですが、もちろん「ぼんさんかんざし買うを見た」の純信さんとお馬さんであります。大通りをまっすぐ進んで大きな交差点に出たところがご存じ「はりまや橋」、
欄干だけが残る姿にすでに何の風格もありませんが、まあここがあの「播磨屋橋」という印くらいはあってくれた方が旅人としても有難いことではあります。
土佐の高知と言えば、先のはりまや橋に桂浜、足摺・室戸の両岬に四万十川、さらに通向きには弘法大師が見残したというその名も竜串・見残しの海岸と名所は枚挙にいとまがありませんが、
それだけに町そのものにやや元気がないといいますか、生活感に欠ける印象があります。経済的な問題でしょうが、観光立県を掲げる以外にないというのが現実かもしれません。
しかし、ロータリーも観光バスの発着場が幅を効かせているのはやむを得ないとしても、この駅にしてももう少し“高知らしさ”が欲しいところです。
日本一整備が遅れていると言われる四国の道路、道路だけが地域開発の全てでは決してありませんけれども、先頃やっと高松方面からの高速道路が開通したとか、
地元のタクシーの運転手さんの話からしてもこれは長年の悲願だったようで、瀬戸大橋に続いて、この地は今、物理的だけでなく精神的にも大きなターニングポイントを迎えているのかもしれません。
[1992]
峰山駅(京都府/北近畿タンゴ鉄道)
北近畿タンゴ鉄道・豊岡発西舞鶴行き普通列車でトロトロと約40分、立ちこめる朝靄の中、丹後路はまるで中国の山水画のようです。
京都府中郡峰山町は「丹後ちりめん」のふるさと、この路線が第三セクター方式の経営に移行されたのを受けて駅舎のデザインも一新したとか、
工事中の鉄骨に張ったロープかと思いきやさにあらず、駅舎全体が手機織機の形をしており(平成2年6月竣工)、ロープはつまり「ちりめん」になる前の糸というわけです。
但し、これは地元の方に説明を受けるか、2階の待合室(売店と名産の展示コーナーになっている)で暫く時を過ごさないと気付かないかと思うのですが…
かつて“ちりめん景気”に沸いた頃、ここでは商売をする場合、常に他の土地に比べて一つ上のランクの物が売れたそうです。行政機関も多く集まっていて、
今でこそかなり整理されたとのことですが、それでも人口1万5千人程の町には不似合いなくらい、銀行の出先機関や自動車の販売店の数が多く、その名残りを保っています。
繊維業界はやはり下火というほかないようですが、それでも淘汰されつつ、伝統産業として残る方向にあるといいます。役所も町おこしのために「古くて新しい地場産業」
として改めて注目して活性化を図っています。和服だけでなく、丹後ちりめんの洋服などという物もマーケットに出そうとしているのだそうです。
ここから20分程行った先に、あの名勝『天橋立』を抱えるこの路線としては、観光路線がその主要コンセプトであります。そこで、この駅に限らず「北近畿タンゴ鉄道」
として再出発したのを契機に、各駅はそれぞれ名物なり名所をモチーフとして模様替えをしたようです。さすがに急ごしらえの印象は否めませんが、
まずは町の玄関口から新しくする、つまり“顔”を造って、同時に経済的施策を打ち出すという、地域振興の一環としての努力は認めたいところですし、期待もできます。
[1992]
新宮駅(和歌山県/JR紀勢本線)
名古屋から特急『南紀号』で桑名、四日市、鈴鹿(伊勢鉄道線内)、津、松阪、尾鷲、熊野市と進み、3時間10分、県境を越えたところで新宮駅到着、
ここはJR東海とJR西日本との境界でもあります。特急『くろしお号』でさらに50分ほど先に行きますと、本州最南端、潮岬のたもと串本です。
やはり南国の駅らしく、蘇鉄の植木を使って駅前ロータリーをつくっています。その一角にあるのが「鳩ぽっぽ」の碑、
「鳩ぽっぽ はとぽっぽ ぽっぽっぽっととんでこい お寺の屋根からおりてこい 豆をやるからみなたべよ たべてもすぐにかえらずに ぽっぽっぽとないて・・・」
あの馴染み深い歌詞とは少しちがいますが、新宮で生まれた東くめと滝廉太郎のコンビにより、日本で初めてできた口語唱歌「鳩ぽっぽ」のオリジナルです。
東くめは明治10年に新宮藩家老の家に長女として生まれたとあります(「東くめ先生略歴」より)。「お正月」や「雪やこんこん」「鯉のぼり」
などもこの人の作であるといいます。この歌碑は昭和37年に建立され、同44年91歳で亡くなったのだそうです。子供の歌は子供にわかることばで、
ということでこの童謡ができたとのことですが、そのやさしい人柄が偲ばれます。それにしても、この地の人は奥ゆかしいのか、これほどの内容のものなのですから、
派手とまではいかないものの、もう少し大きなモニュメントにしてもいいように思います。説明板にしてももっと目立つところに置いて、
読みやすいものにして欲しいところですが、これではあまりに控え目過ぎます。
朝の駅、始発の特急『スーパーくろしお8号』パノラマカー、目当てはやはり白浜温泉からの乗客でしょうか、ここではまだ空席が目立ちます。
さてこの大きな期待を持って乗り込んだパノラマカーですが、パノラマといっても運転席からの視界が広がっているだけで、
また大阪方面へ向かう上りの場合最後尾の車輌になりますので、進行方向に向かって座っている以上、いちいち振り返って見るのも煩わしいし、
だいいち遠ざかる景色を見送るというのは、新しい景観が展開するのに比べてまことに面白くありません。
[1992]
水上駅(群馬県/JR上越線)
おそらく冬以外の季節に訪れたとしたら、この駅はまた別の表情を見せたことでしょう。もしかすると、あまり特徴を持たない、
そして印象にも残りにくい駅だったかもしれません。ところが、“寒い所へは寒い時期に行け”の教えの通り、二月に降り立った水上駅はまさに雪の中で、
屋根のあるホームまでが真っ白、しかも生半可の積もりようではありません、西国育ちの身としては、ただただ圧倒されるばかりです。これが冬の駅というものかと、
駅に対する新しいイメージを持たせてくれました。さらに降り積もる雪、明日の朝果たして列車はこの駅を発着するのでしょうか。
明けて…、雪は新たに50センチも積もり積もったでしょうか、銀世界とはよく言ったもので、単なる白ではない、目に眩しいまさに銀色です。雪国育ちからは、
少々はしゃぎ過ぎとの誹りを受けてしまいそうですが、降る雪はともかく、さすがにこれだけ積もった雪を見ることの珍しい者にとって、やはりこれは感動の朝なのです。
雪の回廊を、宿の送迎バスはまるで何時ものことのように平然と走ります。駅前ロータリーは除雪作業もすっかり完了していて、驚くべきことに列車の運行もまた平常通り、
この駅はこの程度の雪にはビクともしないのです。3番線に、それまで引込み線で待機していた始発の特急が入線してきます。枕木どころか、僅かに姿を残す線路を這うように、
そろりそろりと入ってきました。雪の白さに喜んでばかりはいられない寒さに急かされるように車内に乗り込みますが、突然1番線を何の前触れもなく走り抜ける、
あまり見かけない黄色い車輌、除雪車です。慌ててカメラを構えますが、結局間に合いませんでした。旅人には「除雪車が通ります…」くらいの構内放送が欲しいところですが、
ここではあくまでも通常業務の一環なのであって、決して珍しい事ではないのです。
こうい場所に長逗留すれば、いかにも小説のひとつもものにできそうな、雪は時間さえも閉じ込めて、静かで清冽な、研ぎ澄まされた空間を創出してくれます。とにかく、
雪の駅を実感できて誠に嬉しい駅でありました。
[1992]
小樽駅(北海道/JR函館本線)
札幌駅から快速『マリンライナー号』で海沿いに30分と少々、小樽駅にやってきました。今では、
レストランやみやげ物店になってしまった石造りの古びた倉庫群に挟まれた小樽運河。話に聞いた過去の繁栄振りは名残りのみで、
すっかりレトロを売り物にする町になってしまいました。
運河に倉庫、名物はなぜかガラス工芸、その謂れはよくわかりませんが、オルゴール館などというものもあって小さいわりに退屈させません。
最近では亡くなった有名な俳優の記念館などもできて、観光客にとっても西北海道の観光拠点になっています。
以前の賑わいはなくなったとは言うものの、元々町全体がさほど広くなく、観光客の助けもあって、地方都市にありがちな閑散とした雰囲気はありません。
改築間もないようであり、袖にはまるで当然のように無粋な(?)ファストフードのお店も従えていますが、
それでもどこかに懐かしさを残しているタイル貼りの駅舎の前には、駅前ロータリーというより殆どいきなりの大通りで雑然としています。雑踏をやり過ごして右てに進み、
更に少し奥に入った所に小樽市庁舎があります。ステンドグラスでつとに有名とあって訪ねてみたのですが、これは期待はずれ、極く普通の役場の建物です。
仕事の邪魔にならないように早々に退散することにします。
とにかく運河を目指そうと元の道を戻りますと、ガラス工芸のお店があります。二階の喫茶店で、旅情の味付けで一層味わい深い珈琲を一杯、
帰りがけに階下に下りてあずき色のグラデーションが入ったビールグラスを一つ買いました。
聞けば運河沿いに製作の実演なども見ることができる大きなガラスの町があるとのことで、早速移動します。レストランもあって(これが巨大といっていいほどの規模)、
何はともあれ「うにどん」か「いくらどん」を注文することにしましょう。
レトロでハイカラなどということばが馴染んでしまう町です。
[1992]
山形駅(北海道/JR函館本線)
山形新幹線、開通こそ果たしたもの、受け入れ態勢ができておりません。ホームなどまだまだ整備が完了していないようで、
目下山形駅は全面改築工事中、コンコースに完成予想図が掲示されておりましたが、今のところ骨組み全体がネットやらシートで覆われて見るかげもありません。
近くの天童駅なども改築が予定されているようで、デザインの中に例えば将棋の駒をモチーフにしたりもするのでしょうが、山形駅近辺の各駅は軒並み新しくなるようです。
やたらに新しくしてしまうのもどうかと思うのですが、『つばさ』のお目見えを契機に経済的波及を狙ってのことなのでしょう。
ただ、慌てふためいてむやみに作業を進めている感じもして、周囲の環境とのバランス等、他人事ながら出来上がったが心配です。
そもそも、以前でもここから仙台まで仙山線で1時間、仙台から東京まで東北新幹線で2時間ですから、
山形駅と東京駅を直結させても時間的短縮は乗り換え時間を入れても30分と少々といったところでした。つまり重要なのはこの東京との“直結”ということであって、
多分に精神的高価を目指したものといえるかもしれません。もちろんそれが経済的効果を伴えば問題はありませんが、在来線の整備で済ます事ができなかったのは、
もしかして政治的意図が働いたのではなかったか、つまりご当地選出の“エライ”政治家先生が何かおっしゃったのでは、
とついつい勘繰ってみたくなるのは旅人の勝手な思い込みですね、きっと…
余計はお世話はこのくらいにして、山形駅構内で広軌のレールが文字通り幅を効かせるようになりました。それにつれて、
比べるとやや華奢な感じのする狭軌用の車輌に変わり『つばさ』をはじめとした広軌用のどっしりとした新型車輌が多くなり、
駅全体もまたパワーアップしたような印象を受けます。
とにかく駅前ロータリーの仮説の駅名看板が、正面にそびえる「燃えろ情熱!べにばな国体」という広告塔に見事に圧倒されているのが哀しい山形駅でした。
[1992]
仙台駅(宮城県/JR東北本線、その他)
東京、盛岡への東北新幹線、山形方面への仙山線、石巻方面への仙石線と東西南北へ広がる交通網は、
まさに東北唯一の政令都市としてその拠点の証です。
車の流れに煩わされるなく、駅前ビルから青葉通りや近くの建物まで直行できる歩道橋は、橋というよりむしろ空中楼閣であり、別名『ペデストリアン・デッキ』
というのだそうです。後から継ぎ足したような東京・渋谷駅前の歩道橋とは、たとえ規模において同様でも、
機能面や美観においてはひと味もふた味も違って素晴らしいものです。決して、“歩かされる”歩道ではなく、利用者本位の造りになっていて、
また見て触れて美しい場所であることが、設備が単なる機能を果たすためのものではなく、日常の暮らしに自然に溶け込み、
しかもそれを一段と豊かなものにするための条件であり、ここにはそんな思想が基本にあることを偲ばせます。
駅ビルを背にしてお城へ向かいますと、駅前の近代的雰囲気からは一転して、名物ともなっています青葉通りのけやき並木、“杜の都”にこだわる仙台の象徴です。
空間はあくまでも広く効率的で、しかしそこには機能美の冷たさを補って余りある緑の演出、“らしさ”を堅持する意欲を感じます。“らしさ”
を表現できていてこその名物・名所であり、青葉通りは仙台のメインストリートとしての資格充分です。
市営地下鉄の開通など都市交通網は更に整備されています。しかし大都市としての体裁をますます整え、開発の歩みが止むことはないものの、この街は“美しさ”とか
“らしさ”とかいったものを決して忘れることがないような気がします。
山形方面から入りますと、終着仙台駅へまだ30分といったところに「作並駅」という温泉で有名な駅があり、駅名標を見ますとここは既に「仙台市青葉区」です。
そこからずうっと青葉区で、山並みが途切れて視界が開けるとようやく仙台駅、緑に支えられた都市といった、いかにも居心地の良い場所という印象です。
[1992]
秋田駅(秋田県/JR奥羽・羽越本線)
秋田駅、どうしても仙台駅の元気さに比べますと、いささか精気の無さを感じてしまいます。仙台駅には無い、駅ビル正面の看板も賑やかで、
ブランドとしてすっかり有名になったお米にお酒といった地元の特産に並んで、何処でも定番である大手メーカーのものとまさに林立していますが、
それでも何処か落ち着いた空気が支配しています。もちろん旅人にはこちらのたたずまいの方が嬉しくもあるのですが、
それでも県庁所在地の玄関としてのプライドが駅舎ではなく、一応駅ビルの体裁をとらせています。駅前ロータリーはタクシーの海、
控え目なバスのターミナルを圧倒しています。あくまでも観光地の趣です。週末の午後で人出も多く、それなりに活況を呈しているのですが、
やはり間もなく訪れる厳しい季節(10月下旬現在)を静かに待っているという印象があります。
それにしても、この秋田で何かの大会でもあるのでしょうか、30分足らずの乗り換え時間でしたが、その間に北から南から東から、
続々と高校生たちがここ秋田駅に降り立ちます。
曇り空ということもあって、鈍い色で重い感じの空がこの地方に対する勝手なイメージを改めて強くします。決して、暗くて“嫌だ”ということではありませんので、
とりわけこの地に縁のある方々には、通り過ぎる者の思い込みと笑ってお許し下さい。つい「ああ、やっぱり東北だなぁ…」などと、感傷に浸ってみたいものなのです。
駅ビル2階のみやげ物売り場に駆け上がって、旨そうな吟醸酒と「なまはげ餅」を買い込みまして、急ぎ改札を入ります。青森発新潟行きの特急「いなほ10号」
が間もなく入線してきます。おばさんたちのグループのおしゃべりと緩慢な動きにイライラさせられながら列に並びます。旅人は孤独です。
[1992]
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